こんにちは!旅狼かいとです。

突然ですが、あなたには今、“好きな人”はいますか?

「いる」と答えてくれた方、あるいは、「特定の誰か」が浮かんだ方にさらに質問です。

その人は今、独り身ですか?

もし、今あなたが好きな人、好きかもしれない人に彼氏・彼女がいたり、既婚者であるならば、今回ご紹介する『若きウェルテルの悩み』はぴったりな一冊になるでしょう。

そして、もう一つオススメできるかどうか判断できる質問があります。

それが、「あなたは今、“自殺“について関心がありますか?」という質問です。

昨今の日本では、芸能人の方々の自殺が連続しています。

コロナ禍の影響で、一般の人々の自殺者数も増加していることでしょう。

そんな「自殺」について、関心や考えがある方にとっても、『若きウェルテルの悩み』はよき一冊になりうるでしょう。

というのも、この若きウェルテルの悩みは、青年ウェルテルが婚約者がいる女性シャルロッテを愛し、その恋の苦しみゆえに最後には自ら命を絶ってしまう、という物語だからです。

そしてこの作品最大の特徴が、ウェルテルの心の葛藤を「ウェルテルが友人に送った手紙」という形で記されている点です。

物語は“物語調”で書く事が当たり前だった時代に、「手紙形式」というあまりに異質すぎる体裁で書かれたこの作品ですが、常にウェルテル目線で物語が進むため、恋に喜び、苦しみ、そして最後には自殺という選択をしたウェルテルに感情を寄せる人が続出。

ウェルテルの叶わぬ猛烈な恋心に共感する人が、次々とウェルテルに憧れる形で自殺してしまうという事態に至るほど人々に影響を与えた作品で、ここから「人を殺める本」という異名がついているのです。

そんな『若きウェルテルの悩み』をぼくも呼んでみたので、その感想や哲学的・人間的にご紹介したい部分を取り上げていこうと思います。

さらには、深い洞察が感じられる文章を名言としてご紹介もしていきますので、ぜひご覧になってください。

   

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『若きウェルテルの悩み』の作品概要

題名

若きウェルテルの悩み

作者

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

作品ジャンル

書簡体小説

出版

新潮文庫

あらすじ・基本情報のまとめ

若きウェルテルの悩み(ドイツ語: Die Leiden des jungen Werthers)は、1774年に刊行されたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによる書簡体小説です。

「ゲーテの作品」というと、さまざまな現代作品に登場する悪魔メフィストフェレスが登場する戯曲『ファウスト』が最も有名なものでしょう。

『若きウェルテルの悩み』は、青年ウェルテルが婚約者のいる女性シャルロッテ(ロッテ)に恋をし、その喜びと苦しみに葛藤しつつ、最後は叶わぬ思いに絶望して自殺するまでを描いています。

出版当時ヨーロッパ中でベストセラーとなり、主人公ウェルテルをまねて自殺する者が急増するなどの社会現象を巻き起こしました。

この現象から、「精神的インフルエンザの病原体」とまで一時は呼ばれることとなりますが、現在も世界中で広く読まれている作品になります。

伊藤計画のSF小説『ハーモニー』でも言及されており、その際の紹介文句は「人を殺した本」でした。

  

  

『若きウェルテルの悩み』を読んで

評価・感想

おもしろさ

「おもしろい」と言っては語弊があるかもしれませんが、とても内容が深く読み応えがある作品でした。

そういう意味では、「おもしろい作品」と言えます。

読みやすさ

たまに読みにくい言い回しが出てくるものの、哲学チックな本の中ではかなり読みやすいと方だと感じました。

というのも、『若きウェルテルの悩み』の話そのものは、基本的にウェルテルが友人(この『若きウェルテル』を記したという設定の人物)に宛てて書いた手紙の文体で進みます。

なので、文が途切れながら進むため全体を通じて読みやすい構成となっており、ウェルテルの書き方も口語的なので理解がしやすくなっています。

また、完全にウェルテルの目線で話が進むため、場面の転換もほとんどなく、ウェルテルに感情移入もしやすいと感じました。

とはいったものの、ウェルテル自身が哲学的な人物なので、一回サラッと読んだだけではなかなか理解しにくい部分が多いのも事実。
(下の名言集がその代表例です…笑)

ですので、評価としては「3」をつけさせていただきました。

斬新さ

書簡体小説」という新たなジャンルを創造したという点だけをみるだけで、その斬新さは評価できるでしょう。

今でも「手紙の形式」オンリーで進む小説というのはほどんとないはずですから、かなり新鮮な感覚で物語に触れることができますよ!

イメージのしやすさ

『若きウェルテルの悩み』においては、ここまでの「おもしろさ」、「読みやすさ」、そして「斬新さ」を総括した評価が、この「イメージのしやすさ」につながると思います。

表現がどうしても古めかしい部分があり、日本人からしたら馴染みのない風景描写もあるので、場面そのもののイメージが掴みづらい場所がいくつかあるということで「4」の評価をしていますが、
ウェルテルの状況や周りの人の様子をイメージする分には読みやすい構成となっていると感じました。

手紙という体裁でありながら、ウェルテルが日記のような内容を多く書いていることも理解のしやすさにつながっていると思いますね。

メッセージ性

「人を殺す作品」といいつつ、メッセージ性の評価が「3」の理由をお話しします。

それは、「この作品・物語そのものからは、メッセージ性や教訓をあまり感じなかった」からです。

この物語はウェルテルの視点で物語が進むため、どうしてもウェルテルの感情や考えに最も触れることができます。

それを素直に受ければ受けるほど、「ウェルテルに共感できる」か「ウェルテルに共感できない」のどちらかのみの解釈となってしまいます。

なので、もし『若きウェルテルの悩み』から、物語を楽しむ以上のものを得たいと思うのなら、“自分から“客観的に、ウェルテルの心の動きを見つめたり、ウェルテルと交流する人々の考えにも耳を傾ける必要があるのです。

ですので、自分から「何かを感じよう、ただの読書以上のものを、“得ようと思って読めば得られる“」という評価となりました。

また読みたいか

自分が恋をしたときに、「果たしてこの恋は本物なのか、単に寂しさを紛らわすだけのためなのか」と、自問自答することがあれば、ウェルテルの身を焦すような恋心にまた触れたいと思う作品でした。

「ウェルテルの恋心」を通すことで、「自らの恋心」や「愛」と向かい合う。

そんなことができると感じました。

    

   

印象的なことば(名言集)

 人間というものは自分で自分を責めることができるのだから妙なものさ。ぼくはね、君に約束する。自分を改善しようと思う、運命がぼくたちに課するちょっとした不幸を、これまでやってきたようにもう反芻すまいと思う。現在を現在として味わおう。過去は過去さ。たしかに君のいうとおりなんだ、もし人間がーしかし人間というやつはどうしてこういう仕掛けになっているのだろうねーこうまでしてしつこく想像力をはたらかせて過去の不幸を反芻せずに、虚心に現在を生きて行けたら、今より苦痛がすくなくてすむんだがね。

[超訳]

人間というものはどうしても、過去を思い出してしまうもの。

今は今、過去は過去と割り切り、“今”というこの瞬間を楽しむことが、とても大切なんだ。

   

 学問のある学校先生や家庭教師の方々は、口をそろえて、子供というものは自己の欲求の拠ってきたる所以を知らぬとおっしゃるのだが、大人だってそうじゃないか。子供たちと同じようにこの地上をよちよち歩きまわってさ、どこからやって来てどこへ往くのかを知りはしないし、本当の目的に従って行動しもしないし、ビスケットやお菓子や鞭であやつられているわけなんだが、不思議だね、誰もそういう実情を信じたがらない。ところが、こんなにはっきりとしていることはないじゃないか。
 (中略)
 子供たちみたいに毎日毎日を他愛なく暮らし過して、(中略)さてやっとかねて望みのものを手に入れたとなると口いっぱいにほおばって食べてしまい、「もっとおくれ」とせがむ。そういう人間がつまり一番幸福なのだということだろう。そうかもしれないね。ー幸福な手合さ。それからまた、自分たちのつまらぬ仕事だとか、自分たちのきまぐれにさえも仰山な名前をつけて、さあこれこそ世のため人のための大事業だと触れまわる人たちだってやはりそうだ。ーそれで済んで行く連中はそれでいいのさ。ところが世上万端の行き着く先を謙虚に悟り知って、仕合せに暮らしている市民の誰彼がちっぽけな自分の庭を飾り立てて天上の楽園のようにしたり、また不幸な人間が重荷を背負ってあえぎあえぎ世間を渡って行き、まず例外なく世の中の誰もがこの世の太陽の光を一分でもながく見ていたいと願っているということを見てとる人間は、そういう人間こそは口数をきかずに、自分自身の中から自分の世界を作り上げもするし、また、自分が一人の人間なのだから幸福でもあるわけだ。その上、そういう人間はどんなに浮世の束縛を受けていたって、いつも胸の中には甘美な自由感情を持ち続けているんだ。自分の好む時に、現世という牢獄を去ることができるという自由感さ。

[超訳]

大人はよく、「子供は何も考えずに無邪気でいいなぁ」と言うけれど、結局のところ大人だってそう変わらないのではないか?

自分がどうなりたいか、どこを目指しているのかを自覚せず、ただ毎日を目先の欲望や利益のために過ごしていないだろうか?

もしそうだとしたら、それはお菓子やおもちゃをせがむ子供と本質的には大差ないのではないか。

そしてそういう大人ほど、自分の仕事は大事なことなんだ、とか、これは世のためにやらないといけないことなんだ、とか言って、大したこともないことを仰々しく言うものだ。

対して、自分の将来をなんとなくでも見据え、さらには自分の中にたとえどんなに小さくても幸せを感じられるものを持っている人は、大きなことや余計なことを言うことなく、世間に必要以上に縛られることなく自由に生きていられるものなんだ

   

 無限に豊富なのは自然だけだ。自然だけが大芸術家を作り上げるんだ。市民社会を称賛できるように、規則擁護論はむろん可能だし、規則に従って人間は決して没趣味なものやまずいものはこしらえはしない。ちょうど法律や作法によって身を律する人間が、絶対に不愉快な仲間だったりひどい悪者だったりすることがないようにね。しかしその代わり規則というものはどんなものだって、自然の真実な感情と真実な表現とを破壊するものなんだ。これは明白だ。君はあるいは反駁するかもしれない、規則はただ制限し余計な蔓を切り取るだけだ、そういうのは極端だ、と。ーじゃ一つ、譬え話を持ち出そうか。つまり恋愛みたいなものなんだ、それは。若い男がある少女にぞっこんにほれこんで、年がら年中その少女のそばにつききっりで、全才能、全財産をあげてその少女に参っていることを絶えず示そうとする。そこへ一人の俗物、役人なんかをやっている男が現われて、こういったと思いたまえ。「ねえ君、恋愛するのはもっともだが、ただしもっとましな恋愛をしたまえ。君の時間を分けて、その一部は仕事にさく、そして休養時間を君の娘さんにささげたまえ。財産を計算して、必要なかかりを除いて、残った部分からその娘さんに贈り物をするというのなら結構だ。ただし贈り物もあまりひんぱんにしてはならない、誕生日とか命名日とかにかぎる」ーなどとやらかしたら、どうだろう。なるほどそんな忠告に従えば有能な青年ができあがるだろうから、こういう青年なら役人として使われてもご損はありませんといって、ぼくだってご領主様どなたにもおすすめするさ。だけど恋愛はそれでおしまいだ。その青年が芸術家なら、芸術もまたおしまいさ。ああいったいどうして、天才の流れが、あふれ出て高潮して押し寄せ、君らの心をゆすぶって驚愕させるのはまれなんだろうか。ーその岸辺の左右には落ち着きはらった紳士諸君が住んでいて、自分たちの四阿やチューリップの花壇や菜園が台なしにされやしないかと心配して、将来の危険にそなえて時折ダムを築く、排水工事を施すという次第だ。

[超訳]

あまりに決まり事や世間体を気にしすぎると、お堅いだけの“つまらない人間“になってしまう。

理性だけでなく、感情や感性も大切にしてこそ、人間は人間味あふれる“人間らしい“人間になる。

そして、そうして生きていた方が、楽しい人生を送れるはずだ。

   

 不思議だ、ぼくがここへやってきて、丘から美しい谷をながめ、ぼくをめぐるあたりの景色をめでてー(中略)ーぼくは急いで行ってみる。そうして帰ってくる。望んだものは見つかりはしなかったんだ。未来というものも、遠方と何の変わりがあるのだろう。大きな漂うような全体的なものがぼくらの魂の前に横たわっていて、ぼくらの感情はぼくらの眼と同じようにその中にのみこまれてしまう。本当にぼくたちはぼくたちの全存在をささげて、たった一つの大きな壮麗な情感のいっさいの歓喜をもってぼくら自身を満たそうとあこがれるんだ。ーところが、ところが、急いで行ってみれば彼岸が此岸になってしまい、すべてはもとどおりなんだ。ぼくらは相変わらず貧相で狭く、逃げ去った幸を求めて魂はむなしく息を切らしているのだ。
 そんなわけだから、どんなに尻の落ち着かぬ放浪者だついには自分の生まれた国に舞いもどり、自分の小さな家に、妻のかたわらに、子供たちのまどいの中に、彼らを養う仕事の中に、広い世界で求めてえられなかったよろこびを見いだすのだ。

[超訳]

自分が生まれた場所や馴染みのあるところから、何かを求めて旅や放浪に出る人は多い。

でも、結局最後は、自分の身近なものや身近な存在から、真に大切なことを得るものだ。

   

 不機嫌は一種の怠惰だ。不機嫌というものは、われわれ自身の愚劣さに対する不快や不満であり、この不満はいつもばかげた虚栄心にけしかけられる嫉妬心と一緒になっている。

(中略)

 ぼくたちはそもそもそれ(怠惰)に傾きやすいんだけれど、もしいったん自分の力を振い起す力を持ちさえすれば、仕事は実に楽々とはかどるし、活動しているほうが本当に楽しくなってくるものです。

(中略)

 ひとの心を左右する自分の力を頼りにしてですね、ひとの内心から湧き上がってくる素朴なよろこびを奪ってしまうなんていう人間は許しがたい。この世のどんな贈り物も、どんな親切も、今いったように暴君によってやきもちまじりの不機嫌のために、だめにされてしまった楽しい自己満足の一瞬間を償うようなことはできないのです。

[超訳]

「不機嫌」というものは結局のところ、「自分はもっとできるはずだ」「自分はこんな人間ではない」「自分はもっと認められるべきなんだ」といった虚栄心や自己顕示欲から生まれるものである。

そして、こうした自己顕示欲は他者への嫉妬となり、嫉妬は「自分なんてどうせ…」という自己嫌悪へとつながり、最終的には「別にやらなくてもいいかな」と怠惰な感情に移っていってしまう

この負のサイクルによって喜びが感じられなくなってしまっているのは非常にもったいない。

だから人は、過剰な虚栄心や自己顕示欲、承認欲を捨て去り、自分の行いや自分に起こる出来事にありのままの喜びを感じればよいのだ。

それが、人生を楽しむ秘訣の一つなのだ。

  

(子供を楽しませる、子供時代特有の迷信を信じ込ませるより、子供には早くから事実を教えなければいけないと言う大人に対して)
 われわれは、神がわれわれを遇するように、子供を遇しなければいけない。神は心たのしい錯覚のうちにわれわれを酔ったように歩かせるときこそ、われわれを最も幸福にしてくれるのだ。

[超訳]

たとえば、「サンタさんは本当に白髭で赤い服装をしたおじさん」という迷信を信じていた方が、「サンタさんは親だ」という事実を突きつけられるより夢があって楽しいはずはだ。

そして大人になった今、「現実とは何か?」という質問に対し、あなたは答えられますか?

もし答えられないのなら、「この現実はしょせんは神が創りあげられた虚構に過ぎない」と言われても、否定できないことになりますよね。

そして、「現実」は神様が創りだした虚構に過ぎないのならば、子供時代に迷信を信じていた時と、今の現状は何ら変わらないのではないか。

大人たちは、大人になってこの世のことをすべて知ったかのように振る舞うが、結局のところ、本質的には何も知り得ていない。

だったら、子供の時の迷信を信じ込んで楽しみを見出す姿勢に倣い、肩の力をもう少し抜いて生きていた方が、人生が楽しめるのではないか。

  

(ロッテの元へ行けず、下男を送った夜)愛のない世界なんて、ぼくらの心にとって何の値打ちがあるのだろう。あかりのつかない幻燈なんて何の意味があるんだ。小さなランプを中に入れて初めて白い壁に色とりどりの絵が映えるのさ。なるほどそれもはかないまぼろしかもしれない、それにしてもさ、元気な少年のようにその前に立って、その珍しい影絵にうっとりしていれば、それもやっぱり幸福と言っていいじゃないか。

[超訳]

たとえ会えない時間が続いたとしても、愛する人を思い出すことができるものを見ているだけで幸せになれるのなら、それでいいじゃないか。

それを笑う人間は、愛を知らない人間なんだ。

   

 えんどうを数えようと、隠元豆を数えようと、結局同じことではあるまいか。世の中のことは、どんなこともよくよく考えてみればくだらないのだ。だから自分の情熱や自分の欲求からでもないのに、他人のため、金のため、あるいは名誉とか何とかのためにあくせくする人間はいつだって阿呆なのだ。

[超訳]

結局のところ、人と人を比べ合うことにはなんの意味もないのだ。

だから、ただ世の中から“良く”見られるためのステータスとして、自分が本当に望んでもないのに、他人のために何かしたり、お金を得たり、あるいは名誉や地位を得ようと努力するなんてことはナンセンスなのではないか。

自分の心がおもむくままに日々生きていった方が、イキイキとした人生を送れるはずだ。

   

 世の中では“あれかこれかで”片のつくようなものはそうめったにあるもんじゃないってことだ。ぼくらの気持や行動の仕方は実に複雑なのだ。

(中略)

 君の説によればこうだ、ロッテに望みをかけることができるか、あるいはできないか、そのどちらかだ。第一の場合にはその望みが遂げられるようにがんばるがよし、第二の場合には気をたしかに持って、自分の力をすべて消耗するようなつまらぬ感情を捨てさるように努力すべきだ。
 ーなるほど、君、まことにそのとおりなんだ、がーいうのはたやすい。
 だから君、業病にとりつかれて、刻々衰えていく不幸な人に向って、短剣を揮ってひと思いに苦の源を断てと要求できるかい。その病人の精力をむしばんでいる病気は、また同時に病気からわが身を解放してしまおうという勇気を奪うものではなかろうか。
 君はむろん似たような比喩でこう答えられるだろう、誰にしたとところがぐずぐずして自分のいのちを危うくするよりは、むしろ片腕をすっぱり切ってもらいたかろうと。

[超訳]

確かに、客観的に見れば「ここで諦めるべきだ」とわかることは多い。

それは自分でもわかっていることだ。

ただ、世の中の出来事や自分の感情は、“あれかこれか”、“こちらかあちらか”と二分できるほど、単純で簡単なことじゃない

時には諦めるべきだとわかっていても、割り切れないこともあるものなんだ。

だったらその時は、自分の気が済むまでとことん向きあって、足掻いてもいいんじゃないかな

   

 どうして君たちはそういきなりある事柄について愚かだの賢明だの、善いだの悪いだのいわずにはいられないんだろう。だけれどもそういったところで結局どんな意味があるんだい。前もってある行為の内面的ないきさつを調べてみたうえでの話なのかい。ある行為がなぜ起こったのか、なぜ起こらなければならなかったのか、その原因をはっきり説明してみせることができるのかい。もし君方がそういうことをやったら、なかなかもってそうあっさりと判断は下せまいと思うんだがね。

(中略)

 「盗みが罪だということは真実だ。しかしさし迫る飢えから自分自身や家族の者を救おうとして盗みをはたらいた者は、同情に値するだろうか、刑罰に値するだろうか。不貞な妻と下劣な誘惑者を正当な怒りにかられて殺す夫にたいして、またよろこびにわれを忘れてとめどない恋の歓楽に身を任せた少女に向かって誰が第一の石を振り上げるだろうか。ぼくらの法律さえ、この冷酷無情な衒学者(げんがくしゃ)さえ感動のあまり、罰を差し控えはしないだろうか」
 「自分の情熱のとりこになって思慮分別を失った人間というものは、酔っぱらいや狂人みたいなものだからね」
 「ああ君たちは理性的だねぇ。情熱、陶酔、狂気。しかし君たちは悠然と無感動に澄ましかえっていられるんだね、君たち道徳家は。(中略)何か大きなことや、何か不可能に見えるようなことをやってのけた非凡人は、みんな昔から酔っぱらいだ、狂人だといいふらされざるをえなかったことが、ぼくはぼくなりにわかってきたように思う。
 しかしこの世間でだって、誰かが自由で気高い意想外な仕事をやりはじめると酔っぱらいだのばか者だのって取り沙汰をするが、あれも実に聞くに堪えない。無感動な君たち、利口な君たちも、少しは恥ずかしいと思いたまえよ」

[超訳]

人はよく、その人の行動やその人そのものを「良い」か「悪い」か、「賢い」か「愚か」かを判断する。

しかし、そう言えるだけの根拠を持っている人はほとんどおらず、その人のうわべの状況や見た目、あるいは結果だけで判断し、偉そうに上からものを言う

「お前はこうするべきなんだ」、「あなたはこれをするべきではない」という根拠のない、感情に任せた助言から、時によっては、あの人は狂っている」「おかしな人だ」と蔑んだり笑い物にさえする。

だが、何か大きなことをやってのけたりあっと驚く結果を出してきた人間たちの多くは、はじめは「狂人」や「頭のおかしな人」と言われてきた歴史がある

他人を評価したいのなら、せめてその人の行動を分析したりそうした理由をよく考えた上で行うべきだ。

   

 (自殺についての論争で)
 人間の本性には限界というものがある。喜びにしろ、悲しみにしろ、苦しみにしろ、ある限度までは我慢がなるが、そいつを越えると人間はたちまち破滅してしまう。だからこの場合は強いか弱いかが問題じゃなくて、自分の苦しみの限度を持ちこたえることができるかどうかが問題なのだ。ー精神的にせよ、肉体的にせよだ。だからぼくは自殺する人を卑怯だというのは、悪性の熱病で死ぬ人を卑怯だというのと同じように少々おかしかろうっていうんだ。

(中略)

 からだが病気のためにひどくやられて、精力がつきはて、もうはたらきをしなくなり、どんなに上手な療治をしても生命の順調な循環を回復することができなくなった場合、これは死病と呼んでしかるべきだということは君も認めるだろうね。
 さてそこでだ、これを精神に適用してみたまえな。心がせばめられて、印象にたいして敏感すぎて、ある種の観念が腰をおろしてもう動かそうとせず、自分というものを持てあましている人間の情熱が次第次第に大きくなっていって、平静な分別を根こそぎにしてしまい、破滅してしまうような人間を考えてみたまえ。
 落ち着いた理性的な人は、そういう不幸な人間の状態をつぶさに見渡すだおるし、また何かと忠告もしてやれるだろう。だが、そうしたところでどうなるっていうんだい。病人が寝ているそばに立っていても、自分のありあまる力を爪の垢ほども病人に分けてやることのできない丈夫な人間とえらぶところはないじゃないか。

[超訳]

自殺した人に対して、人はよく「どうして…」とか「もっと相談すればよかったのに…」といった言葉を投げかける。

しかしこれは、外側からその人を見ている人間たちのセリフだ。

たとえば、肉体的な病にかかった状態をイメージしてみよう。

あらゆる治療法や薬の投与を試したみたものの、もうこれ以上の回復が見込めず、今までの治療で心身ともに疲れ果てた患者がいたとしよう。

あなたは彼に、自分の元気な体の一部を与え、彼を回復させることができるのだろうか?

それができないのに、「それでもまだ、希望を捨てないで頑張ろう」と強く言えるだろうか?

そして、もしその人が安楽死を選んだとして、「もっと頑張っていれば…」と言えるだろうか?

「心の病」も、本質的にはそれと同じなんだ。

ただ、表面的に体には見えないだけなんだ。

彼(彼女)の中では、もう尽くせる手は尽くした。

それでも回復が見込めず、心身ともに疲れ果ててしまい、最後は自ら命を断つというところに至ったのだ。

そんな彼らに、あなたは自分の活力、生きるエネルギーを分けることができたのか?

少なくとも、本気で分けようと思った人間はごく少数だろう。

そんな人たちが、自殺した彼らに対して「もっと頑張っていれば…」などと言うのは、あまりに他人事すぎるのではないだろうか。

   

 第一印象というものは受け入れやすいし、人間はどんなに現実離れのしたことでも信じる気になるものだ。ところがそいつはいったん頭に入ってしまったらこびりついてなかなか離れるものじゃないから、それをあとからかき落とそうとしたり削ろうとしたりしない方が賢明なのだ。

[超訳]

第一印象はみんなが思っている以上に、人の頭に残るものだ。

だからその印象を変に書き換えようとしない方がいいし、そうすべき事態に陥らないために、第一印象には十分に気を配る必要がある。

  

 (今の気ままな生活から公使館の大臣のもとではたらくのも良いのではないかという提案に対して)
 あの馬の話なんかを考えてしまうと、もうどうしていいかわからなくなる。ー自由に飽きて鞍と馬具をつけてもらったはいいが、乗りつぶされるっていうあの馬の話さ。ーひょっとするとぼくが現在の境遇を変えたがっているというのは、内心の不安な焦燥の現れなのじゃあるまいか、だとしたら、その焦燥感はたとい境遇が変わったってぼくにつきまとってくるだろう。

[超訳]

「今がつまらない」と思ったり、「もっと刺激がほしい」と感じる人は、現状に不満を抱いていたり、漠然とした不安が心の中にあることが原因だ。

だからといって、安易に職場を変えたりどこか遠いところへ行っても、確かに一時の満足得られるかもしれないが、また同じ悩みを抱えることになるだろう。

大切なのは、「“なぜ“今がつまらないのか」と、あるいは「“なぜ“もっと刺激がほしいと感じるのか」と、根本の部分を考えることだ。

この根本の部分の結論を自分なりにでも出しておかないと、たとえ状況を変えたとしても、また似たような不満を持ち続けることになるだろう。

   

 ぼくたちはよくこう思う、ぼくらにはいろいろなものが欠けている。そうしてまさにぼくらに欠けているものは他人が持っているように見える。そればかりかぼくらは他人にぼくらの持っているものまで与えて、もう一つおまけに一種の理想的な気楽さまで与える。こうして幸福な人というものが完成するわけだが、実はそれはぼくらの創作なんだ。
 これに反してぼくらがどんなに弱くても、どんなに骨が折れても、まっしぐらに進んで行くときは、ぼくらの進み方がのろのろとジグザグであったって、帆や橈(かい)を使って進む他人よりも先に行けることがある、と実によく思う。ーそうしてーほかの人たちと並んで進むか、あるいはさらに一歩を先んずるときにこそ本当の自己感情が生まれるんだ。

[超訳]

あなたは、自分と他人を比べたときに、どうしても他人がより優れているところを「想像」してしまいがちなのだ。

ただそれは、あなたが創り出した「想像」なのであって、真実だとは限らない。

そんなものに振り回されていては、自分の人生を歩むことができない。

だから、他人にばかり目をむけず、自分のことに集中することが大切なのだ。

そして、自分の行いにだけ集中していれば、自然と周りと比べることはなくなるものだ。

   

 魂の平静、これは貴重なものだ。自分自身にたいするよろこびだからね。ただこの宝石が美しくて貴重であるのと同時に、どうかそうこわれやすくさえなければいいんだがね。

[超訳]

心の静寂を保てたとしても、それを脅かす存在、それを再び騒ぎ立てようとする出来事は現れるものだ。

そうしたことから心の静寂を守り続けるのは、ことのほか難しいことだ。

だからこそ心の静寂というものは、得難いものであり、これを得ることが幸せに生きることにつながるのだ。

  

 種のいい馬は激しくせめられると激しく攻め、息を楽にするために本能的に自分の血管をかみ破るということだ。ぼくもたびたびそんな気になる。血管を切り開いて、永遠の自由をえたいと思うのだ。

これは特に超訳はありません。笑

個人的に印象に残った言葉でした。

   

 僕らの立派な先祖たちは、あんなに狭い知識しか持たなくとも、あんなに幸福だったのだ。その感情、その文学はあんなに子供らしかったのだ。オデュッセウスが、はかるべからざる海原、限りなき大地というとき、それは実に真実で人間的で切々と引き締っていて神秘的だ。今日ぼくが小学生の生徒と一緒になって、地球は丸いなんて人まねしていったところで、それがどうだというのだろう。人間は、その上で味わい楽しむためにはわずかの土くれがあれば足り、その下に眠るためにはそれよりももっとわずかで事が足りるのだ。

[超訳]

あなたは、自分が幸せになるためには、今よりもっと多くのことを知り、もっと多くのものを得なければいけないと思っているかもしれない。

でも、古代の人たちは、現代よりも遥かに劣った生活水準の中で幸せな生活を送っていたし、素晴らしい心を育んでいる。

だから、あなたが思っている以上に、幸せというものはわずかなものだけで得られるものなのだ

そしてその幸せを得るために大切なのは、“心“を満たしてやることなのだ。

   

 そうだ、ぼくは放浪者にすぎぬ。この世の巡礼者だ。しかし君たちもそれ以上のものなのだろうか。

[超訳]

ウェルテルはこのとき、自分の心を向き合うために放浪の旅に出ます。

そんなウェルテルに「もうちょっと落ち着いたらどうだ」と声をかける人がいます。

それに対してウェルテルは、
自分は今、心に迷いが生じ、心の葛藤と向き合うために放浪者・巡礼者になっているが、果たして世の中に、心の迷いが存在していない人などいるのだろうか
と半分皮肉めいて返しているのだと感じました。

  

 自分自身の存在が本当に信じられる場合だって、自分がちゃんとそこにいるということを本当に印章づけることのできるような場合、だから自分の愛する人々の思い出や塊の中でだって、やが消え薄れて行かざるをえないんだ、しかもまたたく間に。

[超訳]

自分の存在を明確に信じられるとしても、それはずっと続くわけではない。

なら、大切な人との「思い出」というものは、もっと薄れて消えていきやすいもののはずだ。

だから、「思い出」はその一瞬一瞬を大切にしなければいけないのだ。

   

 つまり人間の運命とは、自分の分に堪え、自分の杯を飲みほすことではないか。ーそうしてこの杯を天の神が人間の身であったときに苦すぎると思ったのなら、ぼくが空意地を張って、うまそうな顔をしてみせるにはあたるまい。

[超訳]

「人生」というものは、自分に与えられた「運命」を精一杯に生き抜くことだ。

そしてその「運命」は、時に神様も苦しく思うくらい過酷なものだ。

だったらさ、少しくらい弱音を吐いてもいいんじゃないかな

    

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『若きウェルテルの悩み』のまとめ

ということで、今回は若きウェルテルの悩みについてご紹介してきました。

ウェルテルの恋心に影響を受けた人たちがウェルテルに憧れ、ウェルテルと同じように自ら命を絶ったという、まさに「人を殺すことができる本」。

現代においては、この作品から「人を愛するということ」や「心の苦しみとその先の自殺」について考えられることが多いと思います。

特に後者については、上の名言でも少し触れた部分もあるように、「どうして…?」と言ってしまうことこそが、自殺が他人事のようになってしまう第一歩のだと、僕自身読んでいて感じました。

また、名言のところで紹介したように、会話調部分で「いいこと言ってるなぁ」と感じることも多く、読む人によって様々な見方・感じ方ができるんじゃないかなと思います。

読んでみると非常に読みやすい本でもあるので、気になる方はぜひお手に取ってみてください。

きっとさまざまな気づきに出会える一冊になりますよ…!