今回のブックレビューは、ルネサンス期のイタリア政治学書・哲学書として名高い、ニッコロ・マキャベリの『君主論です!

その名の如く、君主の種類についてや、君主に必要なことは何かを様々な視点から説いた一冊となっています。

「君主に必要なこと」を、「現代のリーダーやビジネスマンに必要なこと」に繋げることで、今なお多くのことを学べるのはもちろん、文章の至るところに“普遍的に”重要であると思われる考え方や感性が書かれているのも特徴です。

聞くからに難しそうな題名ですが、中世・ルネサンス・近代の政治学書や哲学書の入門書として読めるほど非常にわかりやすい文章となっていましたよ!

そんな『君主論』についての書評、スタートです!

    

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『君主論』の作品概要

題名

君主論(Il Principe)

著者

ニッコロ・マキャベリ(Niccolò Machiavelli)

池田廉 訳

作品ジャンル

政治学書、哲学書

出版

中公文庫

   

   

『君主論』と著者ニッコロ・マキャベリについて

君主論』は、イタリアのルネサンス期にあたる1500年代初頭にニッコロ・マキャベリによって書かれた政治学の著作です。

当時マキャベリはフィレンツェ共和国での地位を剥奪され、隠遁生活を送っていました。

そんな中、ギリシア・ローマや当時のイタリアを中心に歴史上の様々な君主と君主国を分析し、「君主とはどうあるべきか」や「君主として権力を獲得し、保持し続けるにはどのような力量(virtù:ヴィルトゥ)や運(fortuna:フォルトゥーナ)が必要か」などを論じた、この『君主論』を完成させました。

『君主論』は全26章からなる著作です。

まず、「君主体制にはどのような種類があるか」を挙げ、前半ではその君主体制ひとつひとつを解説し、さらにそれに合わせて、いかなる君主体制においても必要な軍備についても述べています。

後半は、前半の内容を踏まえながら「市民や味方に対する君主の態度と政策はどのようにあるべきか」という、本来の意味での君主論に移っていきます。

『君主論』の特徴の一つとして、ギリシア・ローマ時代からの支配者たちをたとえに持ち出すことが挙げられますが、マキャべリは、ロマーニャ地方を一時支配したものの権力の完全な掌握には至らなかった「チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)」に理想的な君主の能力を見ており、随所に“チェーザレ推し”であることがわかる文章が出てくることも特徴となっています。

マキャベリが『君主論』を執筆した当時、イタリアは多くの小国に分裂し、外国の圧迫を受けて混乱の最中にありました。

『君主論』はそんな時代のイタリアを憂いたマキャベリが、イタリア統一への願いから「統一を実現し得るのはいかなる君主か」ということを常に意識して書かれた節があり、実際最後に、『君主論』を献上することとなるメディチ家への期待を述べています。

この、当時のメディチ家の当主でありフィレンツェを支配していたロレンツォ・デ・メディチに『君主論』を献上したことをきっかけに、マキャベリはメディチ家政権下で重用されることとなります。

しかし、メディチ家が神聖ローマ帝国兼スペイン王のカール5世(カルロス1世)がイタリアに侵攻した「ローマ劫掠」によってフィレンツェから追放されると、再びフィレンツェから追放されてしまいます。

この結果、マキャベリは死に至るまで共和制支持派を中心に「メディチ家に擦り寄った裏切り者」や「目的のためには手段を選ばない狡猾者」と非難されることとなりました。

マキャベリの著作物の一つである『君主論』も、批判を受けたりカトリック教会の対抗改革の一環で作られた禁書目録に加えられたりしましたが、18世紀に入ると、ルソーやモンテスキュー、ヘーゲルなどが『君主論』を評価し、今ではその政治思想から、現実主義の古典として位置づけられています。

   

   

『君主論』を読んで

評価・感想

まず、『君主論』から読み解けるマキャベリの考え方としては、「人間性について超現実的かつ性悪説的・悲観的」です。

人間は邪悪なものなので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたのほうも他人に信義を守る必要はない。それに約束の不履行について、もっともらしく言いつくろう口実など、その気になれば君主はいつでも探せる。

こんな文章、現代の自己啓発本には絶対に書けないでしょう。笑

これを「直接的でわかりやすい」「むしろはっきり言ってくれているのがいい」と感じられる人は、多分マキャベリと相性が良い人でしょう(僕はこっち側)。

逆に、「ぶっちゃけすぎじゃない?」「現代の人間はそんなことないよ」と感じる人は、マキャベリの本を読んでもそこまで刺さらないどころか、多分途中で投げ出してしまうと思います。

この「マキャベリの考え方に合うかどうか」で、そもそも『君主論』を最後まで読めるか読めないかの線引きがなされるのではないかと思います。
(それを言ったらどんな本でもそうなのですが、マキャベリはその傾向が強いという認識ですね。)

内容と文章構成自体は、中世・近代の時代の書物にしては非常にわかりやすくできていると感じました。

比較的少なめの文章(基本5ページ前後)で各章に分かれているため、飽きにくく、章ごとに読み進めやすいのも特徴です。

日本語訳が上手ということもあるでしょう、文章そのものもわかりやすく、哲学書にありがちなまわりくどい表現、わかりにくい語彙は“ゼロ“といってもよいくらいに感じませんでした

前提からして「政治学書」や「哲学書」というジャンルなので、多少の小難しさはもちろんあります。

ですので、読みやすさの評価は「4」としましたが、同じジャンルで比較していたらグラフをぶっちぎって5以上の評価をたたき出していますね!笑

学びや活かしやすさについては、内容の「君主」の部分を「社長」や「リーダー」など「人のうえに立つ者」「チームをまとめる者」と、「市民」や「領民」を「社員」や「チームメイト」、「部下」というふうに「自分についてきてくれる人たち」(あるいは、「立場上ついてくる人たち」)、「国」を「組織そのもの」というように、現代のものに置き換えて読めるかどうかで大きく変わってくると思います。
(勝手に『現代版君主論』に置き換えていく感覚ですね!)

こう読めれば非常に多くの学びを得られるだろうし、実践しやすい内容になっていますが、「あくまでルネサンス期の話だ」と捉えていると、単なる歴史書の一種、世界史の勉強の延長の延長くらいの価値にしかならないと思います。

ただ、たとえ後者の捉え方でも随所に「人間の普遍性」をサラッと語っているので、そういった部分はそのままの形で現代に当てはめることができると感じました。

おもしろさについては、僕は上の『現代版君主論』に置き換えながらも、ルネサンス期の『君主論』としても読んでいたつもりなので、学びを得てしかも当時のことにも触れられるという二重の意味で楽しんでいました。

よって、「5」という評価としました。

ということで、『君主論』については「学びを得られる人は非常に多くのものを得れる」し、「得られない人は最後まできっといかないだろう」しという、人を選ぶ「読書に慣れてきた人向け」の本と言えるでしょう。

ただ、日頃から比較的(小説以外の)本を読むという方は得られるものが多いと思いますので、一度手をつけてみる価値は大いにあるとオススメしますよ!

  

   

印象的なことば

言語も風習も制度も異なる地域の領土を手に入れた場合、最も効果的な対策の一つは、征服者が現地に赴いて移り住むことだ。

現地に住み着けば、不穏な気配が生じてもそれを察知して速やかに善後策が立てられる。

その反面、離れていればやっと耳に入るのは暴動が大きくなってからであり、策の打ちようがなくなってしまう。

その上、君主が住んでいれば領地をあなたが任せた高官に略奪されるなどということは、まず起きない。

領民にしても、いつ何時でも直々に君主に救いを求められるので安心できる。

新しいことを始めるのなら、その場所に実際に赴き(そして住み着き)、現場でのコミュニケーションを密にするのが何よりも大切だろう。

言語も風習も制度も異なる領土を手に入れたばあい、そこにはいろいろな困難が待ち受けている。それを維持するには、大いなる幸運と、たいへんな努力が必要になる。このさいの、もっとも効果的な対策の一つは、征服者が現地におもむいて移り住むことであろう。この方策をとれば、領土の保持がより確かなものとなり、より永続しよう。

名君は、単に目先の不和にだけでなく、遠い将来の不和についても心を配るべきである。

危害というものは、遠くから予知していれば対策をたてやすいが、ただ腕をこまねいて、あなたの眼前に近づくのを待っていては、病膏肓に入って、治療が間に合わなくなる。

病気がそうであるように、賢明な人物は何事につけても(『君主論』では当然国政についてのみの言及だが)危害や問題の種は早いうちに見抜き、対策を講じることができる。

誰もが気づくほど大きくなるまで放置していれば、対策のしようがなくなってしまうということをわかっているからだ。

賢い人間であれば、先賢の踏んだ足跡をたずね、並外れた偉人をこそ常に範とすべきであろう。

人間はおおかた、他の人がかつて歩んだ道を踏みしめ、先人の行動を模倣しつつ進もうとする。

しかし、先人の道を違わず進んだとしても、目標の人物の力量にまで達することができないのが常である。

なので、賢い人間であれば、先賢の踏んだ足跡のうち、特に並外れた偉人をこそ常に範とすべきであろう。

これは言ってみれば、賢い射者のとるやり方である。

もし射者の標的があまりにも遠距離で、しかも弓の強さの限界を自覚している場合、彼は狙いを標的の遥か高いところにおいてみる。これは、射者が定めた狙いの高さに矢を射るのではなく、こうして高く寝れ位を定めたおかげで自分の標的に届くように、と考えてである。

自分の一番の理想・目標には、多くの場合届かないことの方が多い。

だからこそ、目指すべき目標はその理想・目標よりさらに高くに設定するべきである。

もちろん、その設定したより高い目標を、本当の目標だと本気で追うことを前提に、だが。

他人の力や運に恵まれたことで手に入れたものを維持するには、速やかに対処する器量がなければいけない。

他者の武力や運によって手に入れた新君主国は、新君主によほどの才能や力量が備わっていなければ、地位を保つことは不可能だろう。

なぜなら、今まで一介の市民にすぎなかった人物が地位を保つ術を知るはずがないからであり、また、味方となって忠誠を誓ってくれる武力もないからである。

結局、他者の力や時の運に追って突然出来上がった国は、植物が十分に根を下ろしひげ根を伸ばせないうちにやってきたはじめての悪天候で吹き飛ばされてしまうかのように、簡単に打ちのめされてしまう。

つまり、運に恵まれ足元に転がりこんだものを維持するには、速やかに対処する器量がなければいけない。

そして、他の者ならば君主になる以前からしておく基礎工事(学問や国の運営のいろは、支援者づくりなど)を、後にずれたにせよ、取り組み続ける器量がなければだめである。

他者の取りなしによって得た地位や、運によって手に入れた財産などは、ひょんなきっかけで簡単になくなってしまうものだ。

それは、その地位を守るために必要な努力をせず、その財産を守るために必要な知識を今まで身につけていなかったのなら、当然のことだ。

最も賢明なのは、いつ他人の力によって、運によって何かを得てもいいように常に準備を怠らないことだ

そして、もし前準備なしにそういったものを得たのなら、遅ばせながらにせよ、努力すること、知識を身につけることに励まなければいけない。

人間は恐怖心でも憎しみからでも、危害を加えようとする。

敵から身を守ること、味方をつかむこと、力、あるいは謀りごとで勝利をおさめること、民衆から愛されるとともに恐れられること、兵士に命令を守らせて、かつ畏敬されること、君主にむかって危害におよぶ、あるいはその可能性のある輩を抹殺すること、旧制度を改革して新しい制度をつくること、厳格であると同時に、丁重で寛大で闊達であること、忠実でない軍隊を廃止し、新軍隊を創設すること、国王や君侯たちと親交を結び、あなたを好意的に支援してくれるか、たとえあなたに危害を加えようとしても二の足を踏むようにしておくこと、以上すべてのことがらこそ、新君主国にあって必要不可欠なものと信じるならば、人は、公(ヴァレンティーノ公ことチェーザレ・ボルジアのこと)の行動くらい生生しい好例を見いだせないだろう。
ただ一つ非難されるのは、彼が選び方をあやまってユリウスを教皇につけたことであろう。
彼がしいたげた枢機卿や、教皇になれば彼に恐れを抱くにちがいない枢機卿の中から教皇の座につく人物を出すようなことを、断じて容認するべきではなかった。なぜなら、人間は恐怖心でも憎しみからでも、危害を加えようとするからだ。

残酷さが“立派に”使われた。

残酷さがりっぱに使われたーー悪についても、りっぱに、などのことば遣いが許されればーー、というのは、自分の立場を守る必要上、残酷さをいっきょに用いて、そののちにそれに固執せず、できるかぎり臣下の利益になる方法に転換するばあいをいう。一方、へたに使われたとは、最初に残酷さを小出しにして時がたつにつれて、やめるどころかますます激しく行使するばあいをさす。
要するに、加害行為は、一気にやってしまわなくてはいけない。そうすることで、人にそれほど苦汁をなめさせなければ、それだけ人の憾みを買わずにすむ。これに引きかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。

何かを始めるときに、「悪」や「残酷」とまではいかないにしても、ネガティブに思われる策や手法をとらなければいけないときがある。

そんな時は、躊躇してチマチマとやるくらいなら一気にその策を施し、後でそのときについてきてくれた部下を中心に十分な褒章・報酬を与えれて心を掴めばよい

君主はその君主たる能力によって、衆人の心を惹きつけなくてはならない。

僭主国においてしてはいけないのは、行政官僚を通して国を治めることである。

この体制をとった場合、君主の方が長官職に据えられた人物の意思に全面的に牛耳られてしまう。

さらに、これまで長官の命令に慣れ従ってきた市民や領民は、非常事態に際して君主の命令ではなく長官の命令に従うことになる。

これでは、君主の絶対権力はないも同然である。

したがって、賢明な君主は、いつ、どのような時勢においても、自らが第一線に立ち、その政権と君主とが市民にぜひとも必要だと、その指導力や剛毅さ、準備万端を怠らず適切な措置を施す力などによって感じさせなければならない。

→「君主」「社長」や「リーダー」と、「市民・領民」を「社員」や「部下」、「チームメンバー」などと置き換えれば、現代のチームマネジメントの話に応用できる。

上に立つ者は自身の能力によって部下やメンバーを惹きつけ、自らが率先してチームを引っ張っていかなければならない。

でないと、いづれ求心力を失い、新たなリーダーの台頭を許すことになるか、組織の崩壊を招くことになる。

支援軍を利用することほど、破滅につながる道はない。

この種の軍隊(外国からの支援軍)はそれ自体は役に立ち、悪くはないのだが、おおかた招いた側に禍いを与える。なぜなら、支援軍が負けると、あなたは滅びるわけで、勝てば勝ったで、あなたは彼らの虜になってしまうからだ。

他者の力を頼って結果を得た時点で、その結果はもう頼った他者によるものであり、自身の結果ではない。

その後に残る道は、頼った他者に依存する道のみであり、それは従属と何ら変わりはしないのだ。

他人の武器というものは、あなたの背中からずり落ちるか、重荷になるか、それともあなたが窮屈を我慢するか、いずれかになるものだ。

この世の物ごとのなかで、みずからの力に基づかない権力者の名声ほど、もろく、当てにならないものはない。

憐みぶかい君主だと思われるより、冷酷な君主だと思われた方がよい。

君主たる者が、自分の領民を結束させ忠誠を誓わせたいのなら、冷酷だという悪評を何ら気にかけるべきではない。

なぜなら、あまりに憐れみぶかいことで国に混乱を招き、やがては殺戮や略奪をほしいままにする君主にくらべれば、冷酷な君主のほうは、ごくたまの見せしめの残酷さを示すだけで、ずっと憐れみぶかい人物になれるからだ。

冷酷な君主なら、処刑を言い渡すのはただ一部の個人だけであり、その一部だけを傷つけるだけで済むが、憐れみぶかい君主は、結果的に全領民を傷つけることとなる。

ただ、冷酷になりすぎて思慮や人間味をなくすということも、絶対にしてはいけないことである

君主としては、愛されるより恐れられる方がよい。

そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだ。
そのため、あなたが恩恵をほどこしているうちは、みながあなたの意のままになり、血も家財も生命も、子供たちさえあなたに捧げてくれる。
そして、いざ本当にあなたに必要がさしせまってくると、きまって彼らは背をむける。

偉さや気高い心に惹きつけられてではなく、値段で買いとられた友情は、ただそれだけのもので、いつまでも友情があるわけではなく、すわというときの当てにはならない。

愛されながらも恐れられるというのは、極めて珍しい状態である。

もちろんこの状態に至れるのなら文句はないが、もし愛されることと恐れられることの両立ができないのなら、愛されるより恐れられる方がよい。

君主はたとえ愛されなくてもよいが、人から恨みを受けることがなく、しかも恐れられる存在でなければならない。

民衆から愛されるというのは、君主が策をとることもなく彼らが勝手にすることだが、恐れられるためには、君主自身がわざとそうさせなければならない。

また、一見矛盾するようだが、恨みを買うことなく、けれど恐れられる存在というのは、両立可能である。

これは、為政者が自分の市民や領民の財産、彼らの婦女子にさえ手をつけなければ、必ずできることである。

人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見放されることがない。

人間は、父親の死をじきに忘れてしまっても、自分の財産の喪失は忘れがたいものだから、とくに他人の持物に手を出してはいけない。

上に立つ者、チーム・組織をまとめる者なら、ときには冷酷な判断を下したり恐ろしい一面を見せておかなければならない。

優しさのあまり好き勝手をさせているよりは、一部の人を切り落とすことになってでも残酷な面を見せた方が、他の者を結果的に守ることになるということを忘れてはいけない。

何より、普段は思慮深くあり、人間味を忘れず、こうして果断に物事を遂行していく姿を見せていれば、部下は勝手についてくるものである。

君主には“人間本来の力“と“獣の力”の両者が必要であり、野獣の気質は狐とライオンから学ぶ必要がある。

ところで戦いに勝つには、二種の方策があることを心得なくてはならない。その一つは法律より、他は力による。前者は人間ほんらいのものであり、後者は獣のものである。
したがって君主は、野獣と人間をたくみに使いわけることが肝心である。

(『君主論』をたとえに持ち出して、)例えば、古代の君主たちは神話や民話では半人半馬のケンタウロス族(ケイロンのこと)に預けられ、教育を受けることが多かった。ケンタウロスは二面性を持った人間の象徴なんだ。君主たるもの、必要なのは二つの性質をいずれも使いこなすこと。そういう話なんだ。

PSYCHO-PASS ドラマCD「気まぐれな犯罪者たち」槙島聖護

君主は人間と獣のいずれの性質も使いこなし、使い分けなければいけないわけで、つまるところ、野獣の気性を適切に学ぶ必要がある。

この場合、野獣の中でも狐とライオンに学ぶようにしなければならない

理由は、罠を見抜くという意味では狐でなくてはならないし、狼どもの度肝を抜くという面ではライオンでなければならないからである

君主は、よい気質をすべて持ち合わせる必要があるのでなく、よい気質をすべて持ち合わせている“ように見せること”が必要なのである。

要するに君主は、前述のよい気質を何から何まで現実にそなえている必要はない。しかし、そなえているように見せることが大切である。いや大胆にこう言ってしまおう。こうしたりっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。そなえているように思わせること、それが有益なのだと。たとえば、慈悲ぶかいとか、信義に厚いとか、人情味があるとか、表裏がないとか、敬虔だとか、そう思わせなければならない。また現実にそうする必要はあるとしても、もしもこうした態度が要らなくなったときには、まったく逆の気質に変わりうる、ないしは変わる術を心得ている、その心がまえがなくてはいけない。

君主、こと新君主の場合は、世間の人間がよい人だと思うようなことだけを後生大事に守っているわけにはいけない。

国を維持するためには、信義に反したり、慈悲に背いたり、人間味を失ったり、信仰に背く行為をたびたびやらなければならないということを覚悟しなければならない。

よって、運命の風向きと事態の変化の命じるがままに、変幻自在の心構えを持つ必要がある。

必要に迫られれば、悪に踏み込んでいくことも心得ておかなければいけない。

そしてもちろん、ここで書いた内容を君主が軽率に口にするのは絶対に避けなければならない。

君主に謁見し、その言葉を聞いている人々の前では、君主はどこまでも慈悲深く、信義に厚く、裏表なく、人情味に溢れ、信仰心の篤い人物と思われなければならない。

総じて人間は、手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう。なぜなら、見るのは誰にでもできるが、じかに触れるのは少数の人にしか許されないからである。

→本当に大胆に言ってくれたな、と個人的には思う。笑

とにかくここで考えておきたいことは、人をまとめる立場にある者である以上、ある程度の「二面性」は持たなければいけないし、持たざるを得なくなるということを覚悟しなければならないということだ。

そして何より大切なのは、その「二面性」を周りには決して見せてはいけず、悟られてはいけないということだろう。

領民が非武装なら、新君主はきまって武装させた。

領民を武装させれば、その兵力はそのままあなた自身のものとなるからである。

さらに、下心を持っていた者が忠実になり、もともと忠誠を誓った人々はそのままの形で惹きつけておくことができ、単なる領民だったのが一瞬にしてあなたの支持者となるのである。

仮に領民すべての武装化ができなければ、武装した一部の人々にだけ特別の恩恵をほどこし、それに合った責任を与えればよい。

そうすることで、武装した人々は自身に対するあなたの恩恵と信頼を感じ、他の人々も武装することの危険性とその責任からくる褒賞に納得せざるを得なくなり、あなたの態度を許してしまうだろう。

城塞を築くぐらいなら、民衆の憎しみを買わないことに徹した方がはるかに安全である。

従来、君主は反乱を企てる者への轡(くつわ)とか手綱の役割となればと思い、そして、敵の急襲に備える安全な避難場所確保するために、城塞を築いていた。

つまるところ、国外の勢力より自国の領民を恐れる君主は、城を築くべきであり、自国の領民よりも外敵を恐れる君主は、築城を断念すべきである。

なぜなら、どんな最上の要塞・城塞があろうと、民衆の恨みを買ってしまい蜂起を許せば、きまって民衆を支援する外国勢力がやってくるものだからだ。

城を建てることは大いに結構だが、民衆の恨みを買うことに無頓着では、どんなに素晴らしい城を築いても必ず国は崩壊するだろう。

→結局のところ、「組織を持つ」というのは「その構成員の信頼を得る」ないしは「恨みや不興を買わない」ことが非常に大切であるということだろう。

君主が衆望を集めるには、何よりも大事業を行い、自らが類稀な手本を示すことである。

このように彼(スペイン王フェルナンド)は、たえず大きな仕事をなしとげ、さらに企んでいた。その度ごとに領民はあっけにとられ、感嘆し、彼の事業に夢中になった。こうした行動を彼は矢継ぎばやにおこない、世間の人に、一息ついて反撃する余裕さえ与えなかった。

君主たるものは、あらゆる行動において大人物で、ずば抜けた人間だという世評を掴むように努力しなくてはいけない。

君主は、誰の味方で誰の敵なのかをはっきりと打ち出すべきである。

君主によっては、勇敢に一人の人物の側に立つと旗幟を鮮明にする。このばあいでは、もし加勢したほうが勝利を握れば、勝利者がどんなに強力で、彼の意志のままにあなたが操られたとしても、彼はあなたに恩義を感じる。そして友情の絆で結ばれる。それに人間は、そこまであなたを虐げて、恩知らずの見本になるほど、不実なものでもない。
またかりに、加勢した者が負けたばあいでも、あなたはその者から迎えてもらえる。力のおよぶかぎり、あなたに声援もしてくれよう。そしてあなたは、いつかふたたびめぐりくる運命の同伴者ともなろう。

上の引用は自国よりも強い国同士が争っている場合の話であり、もし自国よりも弱い国同士が争っている場合は、なおさら片方を支援するべきだ。

なぜなら、彼らの一方を支援すること、この機会にあなたが他の一方を滅ぼしてしまえるからであり、なおかつ、支援した者が勝てばあなたの意のままにできるからである。

逆にいうと、君主は必要やむをえない場合以外では、自分よりも強力な者と組んで第三者に攻撃を仕掛けないことだ

なぜなら、たとえ勝利を収めても、その者の虜囚になってしまうからだ。

君主の能力をはかるには、秘書官を見ればよい。

秘書官の能力が高いということは、君主にそれだけよい人材を選ぶ目があるということになる。

さらに、能力の高い秘書官が自身が君主の座を奪うなどということを微塵も考えていないのなら、それは君主の支配が行き届いてる、あるいは、君主としての威厳が保たれている証である。

つまり、秘書官は君主の能力をはかるよい秤となるのである。

運命に抵抗するためには、人は慎重であるよりは果断に進む方が良い。

運命は、まだ抵抗力がついてないところで、猛威をふるうもので、堤防や堰ができていない、阻止されないと見るところに、その鉾先を向けてくる。

「運命」は、「時勢(時代の流れや流行、その時代の“性格“)」と言い換えることができる。

この時勢に目標への進み方(目標達成のための方法)が合っていればその人は成功するだろうし、どんなに能力がある人でも時勢に合っていなければ破滅の道へ進むこととなる。

なので、この運命・時勢の変化に合わせ得るように果断に行動を起こすべきである。

わたしが考える見解はこうである。人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。
要するに運命は、女性に似てつねに若者の友である。若者は思慮を欠いて、あらあらしく、いたって大胆に女を支配するものだ。

運命のままに“身を任せる“という考え方も現代ではよいとされるが、マキャベリの考え方に従うのなら、運命に自分(とやり方)を積極的に“合わせていく”、あるいは、運命に“乗り込む”とでもいえることが必要であるということになる。

そしてこれには、「運命」をしっかりと感じ取る力が必要になるともいえるだろう。

    

『君主論』のまとめ

ということで、今回はマキャベリの『君主論』を取り上げてきました!

今回ご紹介した部分・引用した文章は、当然『君主論』のほんの一部になりますので、まずはこの記事に書いたことを参考に、『君主論』がご自身に合うか確かめてみてください!

その上で、リーダーとして、人を引っ張る者として何か学びたいという方や、読書の次なるステップに進みたいという方は、ぜひ『君主論』を読んでみてくださいね!