皆さんこんにちは!旅狼かいとです!
今回ご紹介するのは、福岡が誇る観光地の一つ「太宰府天満宮」です!
日本一の学問の神様と言っても過言ではない「菅原道真」を祀った神社は、連日多くの参拝者や観光客で賑わっており、梅の名所としても知られています。
受験期に太宰府天満宮へ足を運んだ、ないしは親族や知り合いの方が太宰府天満宮のお守りを贈ってくれた、なんて方もいるのではないでしょうか。
今回はそんな太宰府天満宮について、そして、菅原道真についてもお届けしていきますよ!
〜もくじ〜
太宰府の歴史

まずは「太宰府」という土地の歴史を軽くご紹介していきましょう。
「太宰府=菅原道真が左遷された場所」ということで、人によっては「何もない土地」というイメージをお持ちかもしれませんが、それは少々誤りです。
大宰府は、かつて「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた「大宰府政庁」が置かれ、アジアに向けられた玄関口として整備されていた地でした。
天智2年(663年)に日本が唐・新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」の後、大宰府は、平城京や平安京と同じ条坊制が布かれた九州地方の政治や経済を司る役所として、そして、アジア諸国に対する最初の防衛都市として大きな役割を果たしていたのです。
とは言っても、やはり当時の京の都から見れば辺境の都市であることにかわりなく、左遷され晩年を太宰府で過ごした菅原道真は、衛生状態や治安の悪さを嘆いていたとされていますね。。
太宰府天満宮について

お次は「太宰府天満宮」について!
「菅原道真(菅原道真公、菅公)」を祭神として祀る天満宮の一つで、京都の「北野天満宮」とともに全国約12,000社の天満宮の総本宮とされ、また、菅原道真の霊廟としても篤く信仰されています。
神紋は道真と所縁の深い梅を用いた「梅紋」となっています。
道真は死後、人の身でありながら「天満大自在天神」という神にまで昇華されており、生前の秀才ぶりや左遷されてもなお日本や皇室の発展と安定を願っていたとされる逸話から「学問の神様」や「至誠の神様」として、さらには「厄除けの神様」として広く知られ、信仰されています。
(このあたりのお話は次のトピックで詳しく書いていきます!)
菅原道真ってどんな人物だったの??

ではではここからは、太宰府天満宮の祭神として祀られる「菅原道真」その人についてご紹介していきます。
神童と謳われた幼少期/当代一の文化人
菅原道真は承和12年6月25日(845年8月1日)生まれとされていますが、出生地に関しては諸説あり定かではなく、死後に神として昇華されたことも相まってかその出生には多くの逸話が残されています。
ただ、幼少期の頃から類稀なる秀才ぶりは発揮していたようで、わずか5歳にして和歌を詠んだという逸話が残されています。

その後も神童ぶりを見せながら成長していき、当時の学者としての最高位である「文章博士(もんじょうはかせ)」に18歳という若さで至ります。
しかも、学問だけでなく武芸にも優れていたとされ、弓を射れば百発百中の腕前、宝刀・宝剣を常に佩刀しており、さらには自ら刀工として鍛治場に入っていたと言われるほどの文武両道ぶりだったそう。
それでもやっぱり一番好んだのは詩歌を詠むことだったそうで、思い浮かぶとすぐさまその場で口ずさみ、周りの物に書き付けていたと言われるほど。
自身で詩を詠うのはもちろん、多くの歴史書や漢詩書の編纂も手がけています。
ちなみに、小倉百人一首では「菅家」という名前を使っていますね!
“政治家”菅原道真
文化人としての才能を幼い頃から発揮していた道真は、政治の手腕についても非常に優れたものを持っていました。
最初は家格に応じた官職に就いていた道真は、讃岐守として讃岐国に赴任することとなります。
その際疲弊していた国を立て直すなどの善政を行い、地元の民からの厚い信頼を得ることとなりました。
それら実績が宇多天皇に認められたことで京都に戻り、以後は要職を歴任することとなっていきます。

寛平6年(894年)には遣唐大使に任命されますが、唐の内政混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議によって遣唐使は停止されることとなります。
こののち唐は滅亡したため、この道真の建議によって遣唐使の歴史に幕が下ろされたと言えますから、歴史上大きな役割を果たしたことになりますね!
その後、道真を重用していた宇多天皇は醍醐天皇に譲位しますが、その中でも道真は右大臣にまで昇進を果たすこととなります。
しかし、左大臣・藤原時平が中心となって企てたとされる政略により突如として大宰府に左遷されることとなり、加えて子供4人も流刑に処されることとなってしまいます。
この太宰府への左遷、藤原時平が一方的に道真を嵌めたと語られることが多いのですが、道真自身も他の政治家同様娘を皇子の妃としたり、時平以外の貴族たちからも反感を買いながら政治改革を進めていたということで、ある意味古来から政治にはつきものの”よくある”陰謀と言えなくもないです。
もちろん、本来の家格からはありえない異例の出世や道真の才能を妬んだ人間たちが加担したとも言われていますので、まぁなんとも言えないところではありすが。。
ただ一つ言えるのは、道真が”政治的な賛同者”をもっと取り付けていれば、あるいは別の歴史となっていたかもしれないということですね。
家格や裏での”根回し”など、言うなれば「純粋な能力以外の政治手腕」、「狡猾さ」とも言える政治能力だけが、道真にはなかったのかもしれませんね…。
この辺はやはり、当時の政治の場における藤原氏の力が大きかったということなのですね。。
太宰府への左遷と「飛梅伝説」
ともあれ道真は太宰府へと左遷されることとなってしまいます。
このとき、自宅の庭の梅の木を想って詠んだとされる和歌がこちら。

春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けてくれ、梅の花よ。
太宰府天満宮公式HP 道真公のご生涯
主人である私がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。
道真は幼い頃から梅を大層気に入っていたようで、この詩以外にも数々の梅に関わる詩を詠んでいます。
そんな道真の想いが届いたのか、なんと京の都から一晩で太宰府の道真の住む屋敷まで梅の木が飛んできたというのです。
これが、太宰府と道真に名高い「飛梅伝説」ですね!
現在、太宰府天満宮の境内にある神木「飛梅」が、まさにこの伝説の梅の木なのだそう。
なんでもこの飛梅が、境内の梅の木の中で一番早く開花するそうですよ!
元号「令和」の出典となったのも、現存する日本最古の歌集『万葉集』の「梅花の歌」ですからね。
梅は桜と並んで、日本を代表する花と言えますね〜
道真の死後 〜人から神へ〜
延喜3年(903年)2月25日、道真は享年59でこの世を去ることになります。
道真の死後、門弟であった味酒安行(うまさけやすゆき)が亡骸を牛車に乗せて進んだところ、安楽寺の門の前で牛が伏して動かなくなります。
味酒安行は、これは道真公の御心によるものであろう、と考えその地に道真を埋葬することとし、延喜5年(905年)に安楽寺の境内に祀廟が創建されました。
、、が、ここからが道真の第二の伝説の始まりと言えるでしょう。
太宰府で道真が死去し埋葬されていた頃、京の都では疫病や異常気象などが続いていました。
そして道真の死後から6年後の延喜9年(909年)、道真失脚の陰謀の首謀者とされる藤原時平が39歳の若さで亡くなってしまいます。
まわりの人間たちはこれらの出来事を「道真の祟り」と恐れ、延喜19年(919年)醍醐天皇の勅命によりに、安楽寺の道真の廟に社殿が建立されます。
しかし「道真の祟り」は収まることを知らず、その後も相次いで道真失脚の陰謀に関わったとされる貴族たちが、そして皇太子2名までもが亡くなっていきます。
そしてとどめの一撃と言わんばかりに起きたのが、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた清涼殿に雷が落ちた「清涼殿落雷事件」です。

画像引用:Wikipedia 天満大自在天神
雷に撃たれた者や火災に巻き込まれた者など死傷者を多数出し、加えてその有様はかなり凄惨なものだったそう。
結局、この事件の精神的ショックが元で醍醐天皇は死去。
加えて、道真を側近中の側近として重用しながらも藤原時平(と醍醐天皇)の政略を許し、道真の失脚を防げなかった宇多法皇も死去してしまいます。
これらの出来事からついに、道真は「天満大自在天神」という神号を贈られるにまで至り、さらには死後であるにも関わらず「太政大臣」の位も贈られることとなりました。
当時の天満大自在天神は、清涼殿落雷事件から「雷神」と結び付けられました。
ここから、朝廷は火雷神が祀られていた京都の北野の地に「北野天満宮」を建立し、道真が没した太宰府では醍醐天皇の勅令によって建立された安楽寺の社殿を「安楽寺天満宮」に改修し、道真の祟りを鎮めようとしました。
この安楽寺天満宮こそ、現在の太宰府天満宮の起源となっている天満宮となります。

画像引用:Wikipedia 天満大自在天神
このような経緯から、菅原道真を「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることとなり、各地に「天満宮」が建立されます。
はじめは「祟り封じ」として祀られた天神様は、以後祟りの記憶が風化していくとともに、道真が生前優れた詩人や学者であったことから「学問の神様」として祀られるようになっていったのです。
つまり、元々は「厄除け」の意味合いが強かったところから「学問の神様」へと変化したいったというわけですね!
「学問の神様」については各時代ごとにより細かくご利益が考えられ、それが今日にも残っていますので少しご紹介しておきましょう!
まずは「書道の神様」としての天神様。
道真が空海と小野道風とともに「書の三聖」と称えられたことから生まれたとされています。
続いて「和歌・連歌の神様」としての天神様。
室町時代に、当時の文化的教養とされた和歌をこよなく愛し、数々の名歌を残した先人とされたことから。
最後は「子供の守り神」としての天神様。
寺子屋制度が整備された江戸時代に「学問の神様」から派生したとされています。
これら道真(天満大自在天神)のご利益から、太宰府天満宮は「学の社(まなびのやしろ)」の異名を誇っています。
ちなみに「至誠の神様」というご利益は、才能を評価され天皇の厚い信頼を受けても奢ることなく誠心誠意日本の発展のため尽くし、左遷後においても皇室と日本の安泰・安寧、また自身の潔白を最後まで神々に祈っていたという、これら生涯を一貫して誠を尽くしていた道真の清らかな生き方から生まれた、とされています。
個人的には、、怨霊になっている時点で、、、どうかなって、、、、思うんだけどなぁ、、、、、笑
ともあれ、日本史上最初に人から神へと至った菅原道真。
その道真を祀っている天満宮の総本宮にあたる「太宰府天満宮」は、日本屈指のパワースポットと言ってもよいでしょうね!
太宰府天満宮の様子
ではでは最後に、太宰府天満宮に実際に行った際の写真をご紹介していきましょう。

鳥居をくぐって入ったこの参道には、古くから太宰府天満宮への参拝者をもてなす茶屋が並んでいます。
近年では、福岡の名産である明太子や太宰府の名物である梅を使った食事処や甘味処も多く並んでおり、太宰府の雰囲気に合わせた”和”の内装が話題となったスターバックスも軒を並べていますね!



撫でると知恵を授かることができるということで、日本各地の天満宮にも置かれていますね!

境内に入るとまず出迎えてくれるのは、大きな池とそれに架かる3本の橋です。
この池は、上から見ると「心」という漢字の形に見えることから「心字池(しんじいけ)」と呼ばれており、本殿へと続く3本の橋はそれぞれ「過去」「現在」「未来」を表しているとされます。
これらの橋を渡ることで心と身体を清め、天神様こと道真の前へ向かうという習わしだそうですよ!







太宰府の楼門は、表と裏で形状が異なっている珍しい門となっています。
心字池側から見ると、屋根が二段のつくりになっていますね。

切れてしまっていますが、向かって右側の白梅が伝説の「飛梅」ですね!

両脇に梅の木がかかってわかりくいですが、こちらから見ると最上段の屋根のみに見えます。


しっかり見なかったのですが、太宰府天満宮の絵馬には梅の模様が描かれているそうですよ!
梅の時期に己を試す挑戦をし、桜舞い散る季節に別れと出会いを繰り返す。やはり日本の四季は美しいですね~~

これは太宰府の里人の間で信じられてきた「天神様がこよなく愛した梅の木の下で「ひょうたん酒」を飲むと厄から逃れられる」という信仰からだそうですよ。

梅の花の見頃は、例年2~3月。
道真の命日が現在の暦の2月25日とされていることもあり、この時期は催し物も多く開かれていますよ!


梅の花といえば、今回は完全にスルーしてしまった(笑)太宰府の名物に「梅ヶ枝餅」があります。
「梅」とありますが、梅の風味がするのではなく餅の中に普通のあんこが入ったシンプルなものが、スタンダードな「梅ヶ枝餅」です。
その由来は、「道真が大宰府へと左遷され心身ともに憔悴していた折、老婆が道真に餅をふるまい、その餅が道真の好物になった」という逸話、あるいは、「道真が左遷直後の食事もままならない軟禁状態下におかれていた際、老婆が梅の枝の先に餅を刺して格子ごしに差し入れた」という逸話だとされています。
こういう時は決まって「優しい老婆」が登場するのが、日本の昔話や逸話のお約束な感じがしますね!笑
美味しそうな写真はさておき、太宰府天満宮の散策に戻りましょう!

















太宰府天満宮へのアクセス
最寄駅は西鉄太宰府駅。
駅のすぐ目の前から参道が伸びています。

太宰府天満宮のまとめ

太宰府天満宮、そして菅原道真についてご紹介してきました今回の記事、いかがだったでしょうか。
個人的には、道真失脚の陰謀の部分はいまの政治や社会にも通じるような学び、とまではいかないかもしれませんが、ある意味教訓のようなものを感じたりできました。
やはり歴史や偉人のお話は面白いですね~!!
道真についての理解も深まったことだし、次は梅が咲き誇る時期に行きたいものです!
皆さんも、福岡、そして九州を訪れた際は忘れずに太宰府天満宮へお立ち寄りくださいね!
さもないと、、かつての天神様のお怒りがあなたを襲う、、かもしれませんよ〜笑