みなさんこんにちは!観光情報サイト「旅狼どっとこむ」の旅狼かいとです!
今回の偉人紹介では、福岡の「太宰府天満宮」や京都の「北野天満宮」と関係が深い「菅原道真」についてお届けします!
日本史では「遣唐使派遣の中止」を提案した人物として覚えた方もいるかもしれません。
観光・旅行の面だと、「天神様」こと「天満大自在天神」として天満宮の神社で祀られている「学問の神様」としての側面で非常に人気です。
最近だと、『呪術廻戦』の乙骨憂太が「菅原道真の子孫だった」という設定が話題となっていますよね!
その際、「日本三大怨霊」と言う言葉が出てきてたと思うのですが、、
そう、菅原道真は日本史上でもぶっちぎりの「大怨霊」としても知られているのです。
「敏腕政治家」「学問の神様」「日本を代表する怨霊」と要素もりもりな菅原道真。
今回はそんな道真の生涯や死因についてのエピソード、怨霊と天神様になるまでの伝説をご紹介します!
〜もくじ〜
菅原道真は何した人?
まずは菅原道真の生涯のエピソードについてご紹介していきます。

“神童”と謳われた幼少期
菅原道真は、承和12年6月25日(845年8月1日)生まれとされています。
しかし、出生地に関しては諸説あり定かではなく、死後に神として昇華されたことも相まってか、その出生には多くの逸話が残されています。
ただ、幼少期の頃から類稀なる秀才ぶりは発揮していたようで、わずか5歳にして和歌を詠んだという逸話が残されています。

その後も神童ぶりを見せながら成長していき、当時の学者としての最高位である「文章博士」に18歳という若さで至ります。
しかも、学問だけでなく武芸にも優れていたとされ、弓を射れば百発百中の腕前、宝刀・宝剣を常に佩刀しており、さらには自ら刀工として鍛治場に入っていたと言われるほどの文武両道ぶりだったそう。
それでもやっぱり一番好んだのは詩歌を詠むことだったそうで、思い浮かぶとすぐさまその場で口ずさみ、周りの物に書き付けていたと言われるほどです。
自身で詩を詠うのはもちろん、多くの歴史書や漢詩書の編纂も手がけています。
小倉百人一首では「菅家」という名前を使っています。
“政治家”菅原道真
文化人としての才能を幼い頃から発揮していた道真は、政治の手腕についても非常に優れたものを持っていました。
最初は家格に応じた官職に就いていた道真は、讃岐守として讃岐国に赴任することとなります。
その際、疲弊していた国を立て直すなどの善政を行い、地元の民からの厚い信頼を得ることとなりました。
それら実績が宇多天皇に認められたことで京都に戻り、以後は要職を歴任することとなっていきます。

寛平6年(894年)には遣唐大使に任命され、唐の内政混乱や日本文化の発達を理由として、道真は遣唐使の停止を提言。
のちに唐は滅亡したため、この道真の建議によって遣唐使の歴史に幕が下ろされたと言えますから、歴史上大きな役割を果たしたことになりますね!
その後、道真を重用していた宇多天皇は醍醐天皇に譲位しますが、その中でも道真は右大臣にまで昇進を果たすこととなります。
右大臣といえば、太政大臣と左大臣に次ぐ政権No.3。
実際のところは、左大臣と同等の役職と考えられていました。
また、宇多天皇は譲位の直前、「政治を左大臣の藤原時平と右大臣の菅原道真の二人で導くように」と伝えたとされています。
Wikipediaなどで「右大臣の一覧」を見ていただくとわかりますが、当時は藤原氏や源氏の絶世期。
世襲が当たり前の時代において、血に関わらず実力でその地位を手にしたという点で、道真の出世は相当目を見張るものだったはずです。
藤原時平の陰謀
しかしだからこそ、道真の出世をよく思わない人間が必ず出てきます。
それが、左大臣であり当時の藤原氏の長子だった藤原時平でした。

ここで、当時の政治体制について少しお話しします。
菅原道真を徴用した宇多天皇は、当時の政治の当たり前だった「藤原氏による摂関政治」を望まず、自身が選んだ側近たちによる政治を行いました。
(これを「寛平の治」と呼びます。)
そんな宇多天皇の後を継いだのが、醍醐天皇でした。
醍醐天皇は、はじめこそ先代の宇多天皇の方針を引き継ぎますが、次第に藤原時平との距離が近くなっていきます。
藤原時平は、道真と同じく宇多天皇に重用されていた人物でしたが、今まで行われていた摂関政治がなされていないために本来掴めたはずの政治の”すべての”主導権が掴めなかったのです。
そんな状況は当然おもしろくないですよね。
それがわかっていた宇多天皇は、譲位後に上皇となっても道真の後ろ盾となり、なんとか時平の政権掌握を阻んでいたのでした。
しかし、時の権力者である上皇と天皇の方針が異なり、政治の主導権を握る右大臣と左大臣も方針が異なるというようであれば、朝廷は2つに割れるに決まっています。
いつしか、
「藤原氏の血を引くの皇子の誕生を望まない宇多法皇側」と「藤原氏との連携によって政権の安定を図る醍醐天皇側」
の対立が明確化していったのでした。
そんな中でも宇多上皇は、自分が望む仏道への道を捨てきれませんでした。
結局、宇多上皇は出家し法皇となり、高野山や吉野山、紀伊山地へ参詣する時間が増えてしまいます。
その隙を逃さなかったのが、醍醐天皇と藤原時平でした。
藤原摂関政治推進派筆頭の2人によって、いわば”目の上のたんこぶ”だった道真は「宇多法皇の子供で自らの婿でもある斉世親王を皇位に立てようとした」という嫌疑によって、突如として大宰府に左遷されることになってしまったのです。

太宰府への左遷
道真が太宰府へと左遷されたこの事件はのちに「昌泰の変」と呼ばれるようになり、道真だけでなく子供4人も流刑に処されることになってしまいます。
この太宰府への左遷は、藤原時平が一方的に道真を嵌めたと語られることが多いのです。
しかし、公平な目で見てみると、道真自身も他の政治家と同様に娘を皇子の妃としたり、時平以外の貴族たちからも反感を買いながら政治改革を進めていたということで、ある意味古来から政治にはつきものの”よくある”陰謀と言えなくもないです。
もちろん、本来の家格からはありえない異例の出世や道真の才能を妬んだ人間たちが加担したとも言われていますので、まぁなんとも言えないところではありすが。。
ただ一つ言えるのは、道真が”政治的な賛同者”をもっと取り付けていれば、あるいは別の歴史となっていたかもしれないということですね。
家格や裏での”根回し”など、言うなれば「純粋な能力以外の政治手腕」、すなわち「狡猾さ」とも言える政治能力だけが、道真にはなかったのかもしれませんね…。
この辺はやはり、当時の政治の場における藤原氏の力が大きかったということなのでしょうか。。
ともあれ、道真は太宰府へと左遷されることとなってしまいます。
左遷と言っても、当時の京都から見れば太宰府は辺境の都市。
菅原道真は、衛生状態や治安の悪さを嘆いていたとされていますし、実際のところひどい環境だったそう。
事実上の死罪という人もいるくらいです。
太宰府への左遷と「飛梅伝説」

そんな劣悪な環境でも、道真は歌を愛することだけはやめませんでした。
このとき、自宅の庭の梅の木を想って詠んだとされる和歌がこちら。

春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けてくれ、梅の花よ。
太宰府天満宮公式HP 道真公のご生涯
主人である私がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。
道真は幼い頃から梅を大層気に入っていたようで、この詩以外にも数々の梅に関わる詩を詠んでいます。
そんな道真の想いが届いたのか、なんと京都から一晩で太宰府の道真の住む屋敷まで梅の木が飛んできたというのです。
これが、太宰府と道真に名高い「飛梅伝説」ですね!
現在、太宰府天満宮の境内にある神木「飛梅」が、まさにこの伝説の梅の木なのだそう。
なんでもこの飛梅が、境内の梅の木の中で一番早く開花するそうですよ!
元号「令和」の出典となったのも、現存する日本最古の歌集『万葉集』の「梅花の歌」ですからね。
梅は桜と並んで、日本を代表する花と言えますね〜

道真の死と祟りの始まり
延喜3年(903年)2月25日、道真は享年59でこの世を去ることになります。
太宰府への移動はすべて自費、左遷後は俸給や従者を与えられず、政務にあたることも禁じられていたということで、事実上の軟禁・監禁のような状態だった可能性もあります。
衣食住もままならない劣悪な環境での生活ということで、これが死因につながったとも考えられています。
道真の死後、数少ない門弟だった味酒安行が亡骸を牛車に乗せて進んだところ、安楽寺の門の前で牛が伏して動かなくなります。
味酒安行は、これは道真公の御心によるものであろう、と考えその地に道真を埋葬することとし、延喜5年(905年)に安楽寺の境内に菅原道真の祀廟が創建されました。
、、が、ここからが道真の第二の伝説の始まりと言えるでしょう。
太宰府で道真が死去し埋葬されていた頃、京都では疫病や異常気象などが続いていました。
そして道真の死後から6年後の延喜9年(909年)、道真失脚の陰謀の首謀者とされる藤原時平が39歳の若さで亡くなってしまいます。
まわりの人間たちはこれらの出来事を「道真の祟り」と恐れ、延喜19年(919年)醍醐天皇の勅命によりに、安楽寺の道真の廟に社殿が建立されます。
しかし「道真の祟り」は収まることを知らず、その後も相次いで道真失脚の陰謀に関わったとされる貴族たちが、そして皇太子2名までもが亡くなっていきます。
そしてとどめの一撃と言わんばかりに起きたのが、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた清涼殿に雷が落ちた「清涼殿落雷事件」です。

画像引用:Wikipedia 天満大自在天神
雷に撃たれた者や火災に巻き込まれた者など死傷者を多数出し、その有様はかなり凄惨なものだったそう。
結局、この事件の精神的ショックが元で醍醐天皇が崩御。
加えて、道真を重用し、引退後も後ろ盾として支援したものの、藤原時平(と醍醐天皇)の政略を許し、道真の失脚を防げなかった宇多法皇も死去してしまいます。
人から怨霊、そして神へ
これらの出来事から、ついに道真は「天満大自在天神」という神号を贈られるにまで至り、さらには死後であるにも関わらず朝廷におけるNo.1の地位である「太政大臣」の位も贈られることとなりました。
当時の天満大自在天神は、清涼殿落雷事件から「雷神」と結び付けられました。
ここから、朝廷は火雷神が祀られていた京都の北野の地に「北野天満宮」を建立し、道真が没した太宰府では醍醐天皇の勅令によって建立された安楽寺の社殿を「安楽寺天満宮」に改修し、道真の祟りを鎮めようとしました。
この安楽寺天満宮こそ、現在の太宰府天満宮の起源となっている天満宮となります。

画像引用:Wikipedia 天満大自在天神
このような経緯から、菅原道真を「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることとなり、各地に「天満宮」が建立されます。
はじめは「祟り封じ」として祀られた天神様は、以後祟りの記憶が風化していくとともに、道真が生前優れた詩人や学者であったことから「学問の神様」として祀られるようになっていったのです。
つまり、元々は「厄除け」の意味合いが強かったところから「学問の神様」へと変化したいったというわけですね!
菅原道真(天神様)のご利益

では最後に、神様となって天満宮に祀られている菅原道真(天神様、天満大自在天神)のご利益をご紹介します!
学問の神様としてのご利益
菅原道真の最も有名なご利益が、「学問の神様」としてのご利益ですよね!
受験合格・学業成就・学力上達はもちろんのこと、就職成就や資格取得といったご利益も。
勉学や受験、就職など、人生の分岐点に立ったときにあやかりたいご利益ですね!
また、学問の神様については各時代ごとにより細かくご利益が考えられ、それが今日にも残っています。
そちらも簡単に紹介しますね!
書道の神様
まずは「書道の神様」としての天神様。
道真が空海と小野道風とともに「書の三聖」と称えられたことから生まれたとされています。
和歌・連歌の神様
続いて「和歌・連歌の神様」としての天神様。
室町時代に、当時の文化的教養とされた和歌をこよなく愛し、数々の名歌を残した先人とされたことから。
子供の守り神
最後は「子供の守り神」としての天神様。
寺子屋制度が整備された江戸時代に「学問の神様」から派生したとされています。
これら道真(天満大自在天神)のご利益から、太宰府天満宮は「学の社(まなびのやしろ)」の異名を誇っています。
至誠の神様としての天神様
菅原道真は「至誠の神様」というご利益があることでも知られています。
これは、「才能を評価され、天皇の厚い信頼を受けても奢ることなく誠心誠意日本の発展のため尽くし、左遷後においても皇室と日本の安泰・安寧、また自身の潔白を最後まで神々に祈っていた」という、生涯を一貫して誠を尽くしていた道真の清らかな生き方から生まれた、とされています。
個人的には、、怨霊になっている時点で、、、どうかなって、、、、思うんだけどなぁ、、、、、笑
ともあれ、日本史上最初に人から神へと至った菅原道真。
その道真を祀っている天満宮の総本宮にあたる「太宰府天満宮」は、日本屈指のパワースポットと言ってもよいでしょうね!
菅原道真について まとめ

ということで、今回は「学問の神様」こと菅原道真の伝説やエピソードをご紹介していきました!
個人的には、道真失脚の陰謀の部分はいまの政治や社会にも通じるような学び、ある意味教訓のようなものを感じたりできました。
やはり歴史や偉人のお話は面白いですね!
こうやって歴史を知れば、観光がさらに楽しくおもしろくなること間違いなしです!
皆さんも、福岡、そして九州を訪れた際は忘れずに太宰府天満宮へお立ち寄りくださいね!
さもないと、、かつての天神様のお怒りがあなたを襲う、、かもしれませんよ〜笑