みなさんこんにちは!旅狼かいとです!

今回ご紹介するのは、

奈良の大仏」で世界的にも有名な「東大寺」になります!

奈良公園の中で、、どころか、

日本全国で見ても屈指の人気を誇る観光名所ではないでしょうか!!

大仏もさることながら、

その大仏が鎮座する大仏殿も世界最大の木造建築ということで、

まさに日本文化・技術の粋といえる場所でしょう。

そんな東大寺について、

修学旅行で訪問する中学生・高校生から、観光で訪れる大人のみなさんまでためになる、

観光の際に知っておきたい見どころや歴史をお届けしていきます!!

東大寺にご旅行を考えている方はぜひ参考にしていってくださいね!

  

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奈良の大仏・造立までの歴史

東大寺_大仏殿

さっそく見どころをご紹介…!といきたいところなのですが、

東大寺や奈良の大仏を語る上では先に歴史をお話した方がよいので、

まずは東大寺と奈良の大仏造立に至るまでの歴史を簡単にお話していきます。

大仏、そして東大寺(大仏殿)が建立されることとなる時代は、聖武天皇の治世でした。

この時代は、干ばつや飢饉、大地震や火災といった災害や疫病(天然痘)、

さらには政治の主導権争いに端を発する政変が多発した時代でした。

そんな国の内情から、

聖武天皇は仏教に深く帰依していたといいます。

混乱の時代の中、聖武天皇と光明皇后との間に皇太子基親王が産まれます。

これが希望の光になるかと思われた矢先、

基親王は1歳の誕生日すら迎えることなく夭折してしまいます

聖武天皇はすぐに親王の菩提を弔うために金鍾寺(こんしゅじ、金鐘寺とも)を建立し、

のちの東大寺の初代別当となる僧良弁をはじめとする9人の僧を住まわせました。

聖武天皇はこれに続き、

天平13年(741年)に「国分寺建立の詔」を発します。

この詔を受けて金鍾寺は大和国の国分寺と定められ、

金光明寺」という名前に改められました。

この頃から聖武天皇は華厳経の教えをさらに学ぶようになり、

この教えのもと、天平15年(743年)10月15日に「大仏造顕の詔」を発します。

相次ぐ災害や政情不安から、遷都を繰り返していた聖武天皇。

大仏造立は初め、

当時聖武天皇が住んでいた恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)で進められていましたが、

短期間のうちに繰り返される遷都に官民たちが強く反発したことから、

結局平城京に戻ることとなります。

そして、

大仏造立は亡き息子である皇太子基親王を弔った金光明寺で改めて行われることとなりました

この経緯から、金光明寺は大仏殿東大寺の前身の寺院であるといわれています。

聖武天皇は、

国の安泰と国民の幸福を願って大仏造立・大仏殿建立という大事業を推し進めることとしたはずでしたが、

それはあくまで思想の話。

現実世界では、過去の日本では例を見ない超大規模な建設事業は国費を圧迫し、

財政状況を悪化させていきます。

当然しわ寄せは国民に及ぶこととなり、

ただでさえ生活が困窮していた平城京では、

浮浪者や餓死者が後を絶たなかったといいます。

そんな中、聖武天皇は大仏完成のための民衆の支持を得るために、

朝廷からは弾圧・禁圧されていたものの、

国民からは絶大な支持を集めていた僧「行基」を大僧正として迎え

大仏造立の実質的な責任者とします。

行基の活躍もあってなんとか大仏の鋳造が完了し、

天平勝宝4年(752年)、天竺(インド)出身の僧侶「菩提僊那(ぼだいせんな)」を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が行われました。

大仏殿の建設工事が始まったのはその後のことで、

竣工したのは聖武天皇が崩御してから2年後の天平宝字2年(758年)のことでした。

  

東大寺の見どころ

では、歴史の紹介も終えたところで東大寺の見どころについてご紹介していきます!

大仏(盧舎那仏坐像)

東大寺_大仏:見どころ紹介

東大寺を語る上で外せないのが、なんといっても大仏ですよね!!

現代では奈良の大仏という名称がすっかり定着している東大寺の大仏ですが、

正式な名前は「盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)」あるいは「東大寺盧舎那仏像」になります。

盧舎那仏」という名前は「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」を略したもので、

実在した”人間としての”ガウタマ・シッダールタ(釈迦、ブッダ)を超越した”真理そのものとしての”釈迦、あるいは、色も形もない”真実そのもの”を指し、

光明遍照(こうみょうへんじょう)」という言葉を意味するといいます。
(「光明遍照」は「世界を照らす仏」や「光輝く仏」を意味するそう。)

そして、

左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲を表現しながら、

人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っているとされています。

また、この盧舎那仏の造立に尽力したということで、東大寺では

聖武天皇(言い出しっぺ)
良弁(東大寺初代別当)
行基(国民に大仏造立の理解を広めた)
菩提僊那(大仏に魂を宿す開眼会を取り仕切った)

の4人を「四聖(ししょう)」と呼び、崇敬の対象としていることでも知られていますよ!

  

大仏殿(金堂)

東大寺_大仏殿:見どころ紹介

創建から二度の焼失にあったものの、いまだ世界最大級の木造建築として知られるのが、

東大寺の大仏殿(金堂)ですね!

実は二度目の焼失後、江戸時代に再建された際に、

建物の幅が11間(86m)から7間(57m)になってしまっているため、

奈良時代に造られた際のものはさらに大きなものだったと考えられています。

そう考えると、聖武天皇の”本気度”が伺えますよね…!

ここではせっかくですので、大仏殿の二度の焼失についても少しお話していこうと思います。

一度目の焼失

東大寺_大仏殿からの眺め:見どころ紹介と歴史

一度目の焼失は、

1180年(治承4年)に平重衡(たいらのしげひら)の軍勢によって行われた「南都焼討」によるものです。

平重衡は平家の最盛期をつくり上げた平清盛の五男であり、

南都焼討は、平氏政権に反抗的な態度を取り続けた寺社勢力の僧兵たちの討伐が目的で行われました。

この焼き討ちによって大仏殿をはじめ伽藍の大半を焼き払われてしまいましたが、

その後、鎌倉時代に重源上人によって再興されました。

二度目の焼失

東大寺_下から見上げる大仏殿からの眺め:見どころ紹介と歴史

東大寺の二度目の焼失は、1567年(永禄10年)に起きました。

永禄の変」とその後の政権争い「三好・松永の乱」の一局面「東大寺大仏殿の戦い」で、東大寺はわずかな建物を残して再度焼失してしまいます。

永禄の変とは、

当時、室町幕府の権力を実質的に握っていた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と松永久秀が、

将軍権力の復権に尽力していた13代将軍「足利義輝」を暗殺した事件で、

「東大寺大仏殿の戦い」は、義輝亡き後の権力を争った三好三人衆と松永久秀の対立と武力衝突を指します。

その争いの最中、

三好三人衆軍が本陣を陣取ったのが東大寺であり、

そこを攻めたのが松永久秀の軍でした。

どうやら「この際の焼き討ちは不慮の事故であった」という説もあるそうですが、

いづれにしても、この東大寺の二度目の焼失によって、

大仏は頭部を失い、大仏殿は完全に焼失してしまいます

しかも、その後の戦国の乱戦の影響で資金が十分に集まらず、

最終的に復興されたのは、

1709年(宝永6年)に江戸幕府によって援助されてのときでした。

この時に再建された姿を明治時代~大正初期に修復したものが、

現在の東大寺大仏殿と大仏となっています。

ちなみに、、

三好三人衆と松永久秀の対立の最中、

足利義昭を擁して京都に上洛したのが、織田信長です。

こう見ると、、

結構歴史って繋がってるんだなぁと感じておもしろいですよね…!

  

南大門

東大寺_南大門:見どころ紹介

天平期の創建時に建てられた最初の南大門は平安時代に大風で倒壊しており、

現在の南大門は鎌倉時代に、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したものになります。

屋根裏まで達する大円柱18本は21m、門の高さは基壇上25.46mを誇り、

これは日本最大の山門となります。

まさに、”大仏が坐する東大寺にふさわしい山門”ということですね!

  

法華堂(三月堂)

東大寺の建築物のなかでは最も古く

寺伝によると、東大寺創建以前にあった金鍾寺の遺構とされるのが「法華堂です。

不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂であり、

旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われることから、法華堂、あるいは三月堂と呼ばれるようになったといいます。

法華堂最大の見どこは、

安置されている本尊不空羂索観音菩薩、梵天、帝釈天、金剛力士(阿吽)、四天王、執金剛紳(秘仏)の10躰の像でしょう。

まさに天平彫刻の宝庫と呼べるこの場所もまた、

大仏殿に隠れた名所、というわけですね!

  

東大寺の観光案内

東大寺_大仏殿:観光情報

拝観時間(大仏殿・法華堂・戒壇堂)

4月~10月:7:30~17:30

11月~3月:8:00~17:00

料金

大人・中高校生:600円

小学生:300円

アクセス

市内循環バス 東大寺大仏殿・春日大社前 下車から徒歩5分

近鉄奈良駅から徒歩約20分

有料駐車場 奈良県営大仏殿前駐車場もあり

  

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