今回のブログでご紹介していくのは、古代エジプト”唯一”の女性ファラオ「ハトシェプスト」の葬祭殿である、「デル・エル・バハリ」こと「ハトシェプスト女王葬祭殿」です!
「え?女性ファラオといえば”クレオパトラ”じゃないの?」と思ったそこのあなた!
確かにそうなのですが、厳密にはそうではないのです!笑
そんな”女性ファラオ”についての細かなところにも触れながら、ハトシェプスト女王葬祭殿の遺跡の紹介や、ハトシェプストに関わる歴史をお届けしていきますよ!
最初で最後の女性ファラオ・ハトシェプスト
ハトシェプストってどんな人物?
まずはハトシェプストのご紹介から。
古代エジプトの最盛期と言われる新王国時代の始まりとなる第18王朝の創始者がイアフメス1世(アハメス王)です。
彼のあとを継いだファラオたちは、積極的に国外への大規模遠征を行うようになります。
その先駆者的存在が、「軍人王」と呼ばれるトトメス1世です。
そんなトトメス1世の娘にあたるのが、ハトシェプストになります。
古代エジプトでは、正統な王位継承者となるための条件の一つとして「王女との婚姻」があり、王女もまたファラオ以外との婚姻が認められていませんでした。
その伝統がこの頃から明確化してきていたとされており、それに伴って王妃の地位の向上も見られたと考えられています。
そんな時代の中、王女であるハトシェプストは異母兄弟のトトメス2世と婚姻をします。
しかし、トトメス2世は王位継承からわずか数年のうちに死去し、ハトシェプストの甥のトトメス3世が王位に就くこととなりました。
このときトトメス3世はまだ幼少であったため、ハトシェプストはトトメス3世の摂政として共同統治を敷くこととなったのですが、次第にハトシェプストは権力を掌握し、ついに「マアトカーラー」という即位名をファラオの名前の証であるカルトゥーシュと呼ばれる字体(厳密には名前を曲線で囲むこと)で書くようになります。
自らファラオを名乗るところにまで至ったハトシェプストですが、男性王権のエジプトではファラオは男性のみが就くことができる地位。
というわけで、ハトシェプストは公の場では男装をし、伝統的なつけ髭も付けていたとされています。
これは、女性的表現がなされたハトシェプスト像と、男性的表現(ファラオ的表現)がなされれたハトシェプスト像の両方が残っていることからもうかがい知ることができます。
父であり先代のファラオでもある”軍人王”トトメス1世の治世とは打って変わって、ハトシェプストの治世は穏やかなものであったとされ、平和的外交による貿易を行い、建築事業を盛んに進めました。
ハトシェプストの外交政策で有名なのは、「プント遠征」と呼ばれるものですね!
“遠征”と付いてはいるものの荒々しい行為ではなかったとされており、「プント」と呼ばれていた現在のソマリアやエチオピアなどの紅海周辺の地域と、金や香料を求めて貿易を行なっていたと考えられています。
このプント遠征を記録したものとされる壁画が、ハトシェプスト女王葬祭殿(デル・エル・バハリ)に描かれています。
最初で最後の女性ファラオ?
ではではここで、ハトシェプストが「最初にして最後の女性ファラオ」と呼ばれる理由をご紹介しましょう!
冒頭にも書いた通り、「女性のファラオ」というと、“悲劇のヒロイン”や”絶世の美女”として描かれる「クレオパトラ」こと「クレオパトラ7世」や、人気ゲーム『Fate/Grand Order』で登場する第6王朝最後のファラオ「ニトクリス」が挙げられます。
しかし、クレオパトラはギリシア系のプトレマイオス朝の女王であり、加えてこの時代の「ファラオ」は、もはや新王国時代までの「ファラオ」とは別物です。
ニトクリスについては、同時代の男性のファラオと同一視されていたり、そもそも存在自体があやふやなのです。
そんな中、「史実に明確に残っている」かつ「”生粋の”古代エジプトの女性ファラオ」と言える唯一の存在が、ハトシェプストなのです。
ゆえに、ハトシェプストが「最初にして最後の女性ファラオ」と呼ばれているのです!
若干僕の解釈も入っていますが、この定義の元、少なくとも僕のブログの記事では、ハトシェプストを「最初で最後の女性ファラオ」と紹介しているとお考えください!
ちなみにということで、ハトシェプストが没した後のことも少しご紹介しておきましょう。ここもハトシェプストに関わりますのでね!
ハトシェプストの死後やっとこさ単独王権を獲得したトトメス3世は、自らの王位継承の正当性を証明するかのごとくハトシェプストが行わなかった対外遠征を積極的に行います。
特に西アジアへの遠征に注力し、祖父であるトトメス1世の時代以上の支配圏を獲得します。
さらに、制圧した国の王や王女を連れ帰ってエジプトの教育を受けさせ、領土となった国の”エジプト化”も図るなど、各支配地域への対策もしっかりと行なっていました。
これらの対外政策から、トトメス3世は「古代のナポレオン」の異名を誇ります。
また、トトメス3世は治世の晩年、共同統治者であり先代とも言えるハトシェプストに関わる、ありとあらゆる記録を抹消し、建造物を破壊しています。
この行為の理由として、ハトシェプストとトトメス3世の間に遺恨があったから、とする説がありますが、遺恨からというよりは、王位継承に関わる政治的な目的だったとする説が近年は有力だそう。
女性がファラオに就いたという”前例”を削ぐことや、王位継承に際しハトシェプスト側より自らの家系の方がより正統な継承家系であることを示すことが狙いだったと考えられています。
この行為によって、デル・エル・バハリのハトシェプスト女王葬祭殿も発見当初はひどい状態だったそうですが、現在では修復がかなり進み、元の姿に近い状態を見ることができますよ!
ハトシェプスト女王葬祭殿(デル・エル・バハリ / Deir el Bahri)をご紹介!
ではでは、写真を使ってデル・エル・バハリ(Deir el Bahri)ことハトシェプスト女王葬祭殿をご紹介していきます!
ハトシェプスト女王葬祭殿へは、「ラムセス3世葬祭殿(メディネト・ハブ)」から「王家の谷」を経由して向かいました。
新王国時代のファラオたちの例に漏れず、ハトシェプストも積極的に建築事業を進めました。
その最たるものこそが、デル・エル・バハリの葬祭殿の建築です。
もともと建てられていた中王国時代最初の王朝のファラオであるメンチュヘテプ2世の葬祭殿の隣に、自身と父トトメス1世に捧げる葬祭殿を建てたものこそ、この「デル・エル・バハリ」こと「ハトシェプスト葬祭殿」です。
ちなみに厳密に言うと、「デル・エル・バハリ」というのは「メンチュヘテプ2世の葬祭殿とハトシェプスト女王葬祭殿が立つ場所の名称」みたいです。笑
なのでここまでの紹介の文章でも、「デル・エル・バハリの葬祭殿」と書いている部分があります。
まぁ実際のところは、”デル・エル・バハリ=ハトシェプスト女王葬祭殿“の認識でまったく問題はありませんよ!
ハトシェプスト女王葬祭殿の入場料
50£E(学生は25£E)
ハトシェプスト女王葬祭殿のまとめ
ということで、今回はハトシェプスト女王葬祭殿、そして、ハトシェプストに関わる歴史をご紹介してきました!
切り立った崖を削って造られたテラス式の葬祭殿は本当に圧巻で、華々しい新王国時代の先駆けを垣間見ることができました!
また、こうして歴史をまとめていると、改めて、世界史は面白いなぁ…!と感じてしまいますね!
そして、学んだ歴史をなぞるように、遺跡を歩く。
これってやっぱ、すごいことですよね!なんだかワクワクしてきますよね!!
想像が掻き立てられるというか、とにかく体の内から興奮してくる感覚に僕はなりますね!!
それはここハトシェプスト女王葬祭殿に限らず、地球上すべての場所に言えること。
そう考えると、いろいろな楽しみが増えてきます!
これは僕が旅好き、旅行好きな理由の一つだと思います。
みなさんにもきっと、ワクワクすること、興味があること、そしてそう感じるその理由があるはずです。
ぜひそれを見つけ、日々楽しく生きていきましょう!
この世界には、まだまだ知らないこと、楽しいことがあるはずですからね!!
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