今回ご紹介するのは、エジプトの首都カイロの一区画「イスラーム地区」になります。
エジプトの世界遺産といえば、ピラミッドやスフィンクス、大神殿といった古代エジプトの遺跡を多く想像されると思います。
実際、僕自身もエジプトへと行くために下調べをするまではそう思っていましたからね!
しかし、エジプトはイスラム教圏の中心地として長く発展してきた歴史をもち、カイロは今日でもイスラム世界有数の都市として知られているのです。
それを表すかのように、今回お届けするカイロのイスラーム地区におけるイスラーム建築群も世界遺産に登録されており、歴史的に重要な価値を持っているのです。
ということで、今回はここまでご紹介してきたギザやルクソール(テーベ)、そしてアスワンとは少々違った雰囲気のエジプトをご紹介できるのではないかと思っています!
イスラム教圏としてのカイロの歴史
まずは、エジプトがイスラム帝国の支配を受けるところから、”近代エジプトの父”ムハンマド・アリーの改革に至る部分の歴史をご紹介していきます。
古代エジプト時代からローマの属州であった時代におけるカイロは、南側のメンフィスに首都がおかれ、西側のギザにピラミッドが建てられたものの、カイロそのものは未開の地とされ、歴史の舞台への登場はおろか、この時代の遺跡さえほとんど見つかっていません。
そんなカイロが歴史に登場するのは、イスラム帝国が西へと支配地域を拡大していった7世紀ごろから。
つまり、カイロの歴史はイスラム教とともにあると言っても過言ではないのです。
639年、当時ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の支配下にあったエジプトでしたが、アラビア半島で興ったイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースが東ローマ軍を破り、エジプト支配の拠点として軍営都市「フスタート」を築きます。
このフスタートの遺跡は、現在「オールド・カイロ」と呼ばれるカイロの中では最も古い地区、言うなれば「カイロ発祥の地」の一部を形成する世界遺産となっています。
ビザンツ帝国からイスラム帝国へと支配層が移った後は、イスラム帝国のウマイヤ朝やアッバース朝によって支配を受たり、独立王朝であるトゥールーン朝やイフシード朝が興ったりと、国内規模の多少の支配層の変化がありましたが、
969年、現在のチュニジアの地域に興ったシーア派(イスマイール派)のファーティマ朝の将軍ジャウハルによって、フスタートが征服されました。
ビザンツ帝国支配下にあった時代からイスラム帝国へと支配権が渡った以来の、外部からの征服になります。
ファーティマ朝のジャウハルは手始めに、フスタートの郊外に「勝利の町」を意味する「ミスル・アル=カーヒラ」という新都を建設しました。
この町が現在の「カイロ」の原型となりますが、当時のカーヒラ(カイロ)の町は政治機能のみを有する都であり、経済の中心は未だ旧都フスタートに残されていました。
以降200年弱の間はファーティマ朝による支配が続いていましたが、12世紀に入るとファーティマ朝は内部紛争によって内政が混乱します。
それに乗じてエジプトに攻め込んだのが、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還することを大義名分にキリスト教のカトリック教徒を中心に結成された十字軍でした。
十字軍遠征をきっかけに成立された十字軍国家の一つエルサレム王国は、1168年にエジプトに侵攻します。
その際、ファーティマ朝はフスタートが要塞化されることを懸念して町を焼き払う焦土作戦をとりました。
結果フスタートは廃墟と化し、政治機能に続き経済機能もカイロへと移ることとなり、カイロは商業都市として発展を始めることとなったのです。
何とか十字軍の手から逃れたファーティマ朝に代わって政権を握ったアイユーブ朝の創始者サラーフッディーンは、十字軍に対抗する拠点として「シタデル」(城塞のことで、アラビア語では「アルア」や「カルア」と呼ばれる)の建設を開始して守りを固めるとともに、カイロの都市機能の拡大を図りました。
アイユーブ朝に続くマムルーク朝は奴隷身分出身の軍人「マムルーク」が政権を握った王朝でしたが、バグダードがモンゴルに征服されたことで中東・アラビア半島のイスラム系王朝の末裔たちがカイロへと迎え入れられ、カイロはイスラム世界の政治的・経済的、そして精神的な中心地となり、栄華を極めました。
そしてこの時代、有力者を指す「スルタン(سلطان sultān)」や「アミール(أمير、amīr)」と呼ばれる者たちによって建築事業が盛んに行われ、モスク(ガーマ)をはじめとする多くの建築物が建てられました。
これらが今日世界遺産に登録されている、カイロのイスラーム地区の歴史的建造物群の大部分を担っています。
14世紀ごろまでイスラム世界の中心地として絶頂期を迎えていたカイロでしたが、その後はペストの流行などによって次第に衰えを見せはじめます。
そして1516年、テュルク系(後のトルコ人)の皇帝を戴くオスマン帝国によって、ついにマムルーク朝が征服されることとなります。
支配された当初はマムルークたちが高い政治的自立性を維持していましたが、それも次第に”オスマン色”になっていったといいます。
エジプトがオスマン帝国の属州となって300年弱となった18世紀後半になると、オスマン帝国は次第に衰退の一途をたどるようになり、1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征によってカイロがフランス軍に占領されました。
しかし、ナポレオンはエジプトの統治に失敗し、その後失脚。エジプトは再びオスマン帝国領となります。
そんな中頭角を現したのが、当時オスマン帝国のアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人ムハンマド・アリーでした。
一介の軍人にすぎなかったムハンマド・アリーでしたが、彼は実力によってのし上がっていき、ついにはエジプト総督に就任するまでに至ります。
エジプト総督の地位を手に入れたムハンマド・アリーは、エジプト国内で未だ強い影響を持っていたマムルークを打倒し、総督による中央集権化を打ち立てます。
さらに、経済と政治・軍事の両面で近代化を進め、エジプトをオスマン帝国から事実上独立させることに成功し、ムハンマド・アリー朝を成立させます。
ムハンマド・アリーは改革を推進し近代技術の導入を図るため、当時力を強めていた西欧列強諸国をはじめとする国外から専門家を多く招きました。
特にフランスとの関係は良好だったようで、フランスから多くの専門家を招き寄せると同時に、エジプトから多くの留学生を派遣しています。
軍事分野においては、当初の勢いの反面、晩年はヨーロッパ諸国のエジプトへの警戒が強まったことで敗戦が続く結果となりましたが、行政・財政・税制分野をはじめとする政策の数々はどれも革新的なものであり、エジプトの国力増進に多大な貢献をしたことは間違いないとされています。
その後のエジプト発展の基礎を築いたムハンマド・アリーは、「近代エジプトの父」や「大王」を意味する「エル・キビール」と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けています。
👇イスラム教についてをはじめとするエジプトの文化については、こちらをご覧ください!
カイロのイスラーム地区をご紹介!
それでは、実際に見てきたカイロのイスラーム地区をご紹介していきましょう!
イスラーム地区へ!
まずはアスワンから早朝、寝台列車でカイロに入りました。
ラムセス駅から見ると、イスラーム地区は南東方向に広がる地区になっています。
ラムセス駅に到着したのが早朝だったこともあり、僕は歩いてイスラーム地区に向かいがてら、日曜朝のカイロを散策することに。
1時間ほど歩くと、次第に周囲の様子が変わってきました!
シタデル(The Citadel)
今回のイスラーム地区訪問において、唯一入場した施設がここ「シタデル(The Citadel)」になります。
シタデルとサラーフッディーン(サラディン)について
先に書いた歴史と重複する部分も出てきますが、シタデルとシタデルにゆかりのある人物「サラーフッディーン(サラディン)」について少しご紹介しようと思います。
「シタデル」は本来「城塞」を表す言葉で、アラビア語では「カルア」、カイロ方言では「アルア」と呼ばれるそうです。
シタデルの建設者は、エジプト・アイユーブ朝の創始者にして十字軍を打ち破った中世アラブ世界の英雄「サラーフッディーン(サラディン)」で、サラーフッディーンは十字軍に対抗するための拠点として、このシタデルの建設を始めました。
サラーフッディーンの本名はユースフ・ブン・アイユーブで、欧米ではサラーフッディーンが転訛した「サラディン」の名で呼ばれることも多いです。
サラーフッディーンは現在のイラク北部ティクリート出身で、アルメニアのクルド族の出自と考えられており、エジプトへは当時仕えていたザンギー朝(12世紀から13世紀にかけてイラク北部(ジャズィーラ)とシリアを支配した王朝)の武将として訪れています。
3度のエジプト遠征を経て、エジプト・ファーティマ朝の宰相に就任したサラーフッディーンは事実上エジプト全土を掌握します。
そして、ファーティマ朝のカリフ(最高指導者のこと)アーティドが世継ぎを残せぬまま病死したことでファーティマ朝が滅亡し、サラーフッディーンはアイユーブ朝を創設したのでした。
サラーフッディーンは若年期から文武両面に長け、とりわけ機を読むことに長けていたと言われています。
政治と軍事の手腕も非常に優れたものを持っていたとされ、エジプトを掌握した後、運にも恵まれたこともありダマスカス周辺のシリア方面へ領土を拡大し、1187年には十字軍の主力部隊を壊滅させ、エルサレムを奪還するに至ったのです。
その後、時のイングランド王であった”獅子心王”リチャード1世らに率いられた第3回十字軍との戦いでは、要所要所で敗北を喫したもののエルサレムを守り切ることには成功し、十字軍との休戦条約を結ぶこととなりました。
サラーフッディーンは、敵の捕虜を身代金の有無に関わらず解放したり、敵将であるリチャード1世が病床に伏しているときには見舞いの品を贈るなど、とても寛大な一面を見せており、味方のみならず敵からも好感を得ることが多かったそうです。
もちろん、この温厚さが時に自らを苦しめることになることもあったようですが、彼が”英雄”として愛されたのはその功績のみならず、優れた人柄にもあったようですね。
そして”城塞”シタデルはというと、サラーフッディーンの死後も建設が進められ、その後のマムルーク朝やオスマン帝国支配下にあった時代、そして、19世紀のムハンマド・アリーの時代に至るまで、エジプト・カイロを支配する政治の中枢として機能しています。
それは何も、華々しい功績が打ち立てられたということのみならず、ムハンマド・アリーの時代には、アリーの中央集権確立の妨げとなると考えられた400人近いマムルークの有力者たちを、騙し討ちに近い方法で殺害した「シタデルの惨劇」が起こったり、英国支配時代には牢獄が置かれたりという、長い歴史を持つ遺跡にはよくある”負の歴史”も含めたものとなっています。
そんなわけで、シタデルはまさに、イスラム教圏のカイロ・イスラム世界としてのエジプトの歴史を感じることができる場所なわけです!
写真でシタデル!
ということで、次に写真とともにシタデルをご紹介していきます!
「シタデル」はこの城塞全体を指す名称で、シタデルの敷地内には「ガーマ・ムハンマド・アリー」や「ガーマ・ソリマン・バシャ」、さらには「軍事博物館」があります。
ガーマ・ムハンマド・アリーはイスタンブールのモスク(ガーマ)を真似て造られたため、他のエジプトのガーマに比べるとかなりの大きさ・荘厳さになっています。
ガーマには、ムハンマド・アリーが死後埋葬されており、アリーの廟を見学することも可能です。
開館時間はシタデルと同じとあったのですが、8時すぎの時点では入れませんでした。
多分9時くらいから開いているっぽいです。笑
チケットはシタデルに入場したものを使うので、追加で買うことはありません。
手前の茶色い街並みと、奥のビル群が何とも対照的というか、”カイロらしい”ところですね!
シタデルの基本情報
開場時間
8:00~17:00
金曜日はお祈りの時間のみ、すべての施設が不可となります。
入場料
60£E(学生は30£E)
アクセス
エジプト考古学博物館の裏にあるバスターミナル(タフリール広場のバスターミナル)から、154番か160番のバスを利用する。
他にも、ギザ広場から出ているサラーフ・サリーム通りを通るマイクロバスを利用する手段もあります。
僕はバスが不安だったのと、バスの使い方でいざこざしている時間がもったいないと思って、ラムセス駅から徒歩で向かいました。
多分1時間くらい歩いていたと思いますね。笑
ただ、カイロの朝は比較的気温が低いので、日中ほどの大変さはありませんでした。
もちろん、徒歩は体力に自信がある方にオススメの方法ですので、バス、徒歩以外となるとタクシー利用になるでしょう。
その際は散々書いている通り、事前の値段交渉は忘れずになさってくださいね!
シタデルを後にし、僕は北東へ向かうことに。
死者の町
物騒な名前がついている場所ですが、別に心霊スポットというわけではありません。笑
「死者の町」と呼ばれる地区は、別名「北の墓地」と呼ばれる、中世の墓地が多く位置する場所になります。
特に、マムルーク朝時代のスルタン(君主)や高官たちが好んでこの地に自らの墓を建てたようで、マムルーク朝の遺跡をはじめとする歴史的な建物も多い地域となっています。
途中の道もなかなかに見応えのある場所を通っていましたよ!
人が住んでいるのかいないのかちょっとわかりかねますが、雰囲気は他とは違う地区でしたね。
もちろん、現在でも人が住んでいる地域になりますからご安心ください!
ハーン・ハリーリ(Khan el-Khalili)
イスラーム地区最後のご紹介は、カイロだけでなくエジプト全体を見まわしても屈指の規模と歴史を誇るバザール「ハーン・ハリーリ(Khan el-Khalili)」になります!
14世紀末にはこの場所に市場ができていたとされており、最大規模を誇った19世紀初頭には12の大バザールがひとつになっていたとか。
現在はここハーン・ハリーリのみとなっていますが、それでもお土産を買うには十分すぎる広さを誇ります!
大きな通りの左右にはもちろんのこと、細い路地にもぎっしりとお店が並んでいました!
“エジプトらしい”金属細工や宝石類をはじめ、食器や革細工や工芸品、エジプトの布製品に香水、香辛料に至るまで、あらゆる買い物が可能です。
(あんまり人を写すとまずいかなと思い、ここにきてチキりました。。)
カイロ・イスラーム地区のまとめ
ということで今回は、エジプトはカイロのイスラーム地区をご紹介してきました。
正直いって、このイスラーム地区だけでも一日を十分に過ごせる場所となっており、対して僕は半日ほどの滞在。
当然、これがすべてなどではなく、シタデルと死者の町、そしてハーン・ハリーリというごくごく最低限の見どころしかまわっていません。
写真も含めてですが、これはアスワンに続き、またエジプトに”忘れ物”をしてきた格好になりましたね。。笑
そんなわけなので、個人的にはぜひともリベンジにまたこのイスラーム地区へ足を運びたいですし、皆さんもぜひ、カイロを訪れた際はイスラーム地区へ足を伸ばしてみてください!
古代エジプトの遺跡群とは違った雰囲気の街並みが見られますし、何より、文化の違いというものを肌で感じることができますからね!!
👇アスワンについての記事はこちら!!
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