みなさんこんにちは!観光情報サイト「旅狼どっとこむ」の旅狼かいとです!

陸奥の「松島」・安芸の「宮島」とともに「日本三景」に数えられる「天橋立」。絶景が有名な天野橋ですが、今回はそんな天橋立の”成り立ち”に注目します。

直接の観光地紹介という記事ではありませんが、成り立ちに関する伝説や歴史といった背景知識を知っておくと、さらに旅行が楽しくなることは間違いありません!

龍やパワースポットが関わる歴史や伝説、砂洲と呼ばれる自然現象についてお届けしますので、天橋立についてさらに詳しく知りたい方はぜひこの記事も読んでいってください!



天橋立の成立伝説

「天橋立」という名前は、「その形が”天に架かる橋のように見える”」ことから名付けられたと言われています。

この「天に架かる橋」には、天橋立の成り立ちに関わる伝説も絡んでいるのです。一体どんな伝説なのか、3つの伝説・逸話をご紹介します!

天橋立伝説その1 『天の架け橋』

天橋立の成り立ち_伝説『天の架け橋』

遠い遠い昔。神の世のお話。国造りのために高天原から降りてきた二神が、伊邪那岐命(イザナギ)伊邪那美命(イザナミ)です。

イザナギとイザナミは天浮橋の上から天沼矛あめのぬぼこを使って、下界のドロドロとした泥をかき混ぜました。そして鉾を引き上げると、先から滴が落ち、それが固まって島となりました。

これを見ていた高天原の神々は、美しい国が出来たと大喜び。
「見事な美しい国だ。ぜひとも行ってみたい」
と口々に言いました。

すると、ある神様がこう言ったのです。
「降りていきたいが道がないな。ここはひとつ、天御中主神アメノミナカヌシノカミ様に頼んでみようではないか」
この提案に対し他の神々も、その通りだ、と賛同。皆で天御中主神アメノミナカヌシノカミのもとへ頼みにいきました。

頼み込まれた天御中主神は、
「わかりました。ですが、本当に必要な時だけ、神のみが使う橋にしてください。むやみやたらに使うとたちまち壊れてしまいます。ご注意くださいね」
と伝え、下界の島国へと通じる橋を架けたのでした。

神々は大いに喜び、次々に下界の国へと橋を降りていきました。

着いた先は「日置」という場所でした。日置には、それはそれは見目麗しい娘がたくさんいました。

天から降りてくる神々を見ると娘たちは、
「神様がこの地においでくださったわ!」
と歓喜しました。

一方の神々も、美しい娘たちに迎えられ大満足。すぐに皆は仲良くなり、さまざまな話をして楽しみました。

しばらく話していると娘たちは、天に突きぬける橋を仰ぎ見ながら、
「私たちも一度、神様の地である高天原に行ってみたいです。どうか連れて行ってくださいませんか」
と、神々に言い寄り出しました。

断っても断ってもあまりにもしつこくせがむ娘たちに、神々もたじたじ。とうとう神々折れてしまい、
「仕方ない、ならば内緒で連れていってあげよう。ただし、決して声を出してはいけないよ」
と伝え、娘たちを連れて橋を登ることにしたのです。

天に通じる橋を上がっていくにつれ、下界の景色がどんどん眼下に広がっていきます。娘たちにとっては初めて見る景色。そのあまりに美しい絶景に、娘たちは思わずつぶやいてしまいます。

「わあ、綺麗…!」

それを耳にした瞬間、神々は真っ青に、、
なったのも束の間、ガラガラガラ!っと耳をつんざくような大きな音とともに、橋が崩れてしまったのです。橋にしがみついていた娘たちはついに放り出されてしまい、散り散りになってしまいました。

そして、高天原への架け橋は跡形もなくなり、崩れ落ちた一部だけが日置の近くに浮いているだけとなってしまいました

人々は残った天の架け橋の一部を、「天橋立」と呼ぶようになったのでした。


天橋立伝説その2  『イザナギとイザナミの神話』

天橋立の成り立ち_伝説『イザナギとイザナミの神話』_天橋立神社_縁結びのパワースポット

神代の時代、伊弉諾命(イザナギ)が天に住んでいたのに対し、伊奘冉命(イザナミ)は地上にある籠神社の奥宮「眞名井神社」に住んでいた時期がありました。

その際、イザナギがイザナミのもとに通うために使っていた梯子が「天浮橋」でした。しかしある時、伊弉諾は誤って天浮橋を倒してしまい、天界と地上を行き来する事が出来なくなってしまったのです。

倒れた浮き橋が地上に残ったもの「天橋立」だと伝えられています。

この伝説から、天橋立は「男女を結ぶ良縁の地」とされるようになったとも言われます。実際、天橋立の松並木の中に佇む「天橋立神社」は「縁結び」「恋愛成就」のパワースポットとして知られていますからね!


天橋立伝説その3 『九世戸縁起』

天橋立の成り立ち_伝説『九世戸縁起』_智恩寺・文殊堂

九世戸くぜと縁起』は智恩寺文殊堂に今日まで伝わる伝説で、7月24日の出船祭の始まりとされているお話になります。

大昔、まだ神々が日本という島を創っていた頃、この地は荒海神あらうみのかみと呼ばれる龍神に占領され、人の住むことができない場所でした。

何とかならないかと神々が相談していると、伊弉諾(イザナギ)が中国の五台山より文殊菩薩を招くことを提案します。文殊菩薩は、仏の中でも最も知恵に優れた仏で、加えて古来より、龍神の導師と言われていたのです。

文殊菩薩は神々の要請に応え、海を越えてこの地にやって来ると、千年もの間、説法を続けました。そしてついに、すべての龍神を改心させ、人々を護る善神へと導いたのでした。

荒海神が去った地に、神々は文殊菩薩が持つ如意に乗って海へ降り立ちます。この神々が降り立った場所を「宮津」といい、如意が浮かんだものを「天の浮橋」と呼びました。

文殊菩薩は獅子に乗って上陸したので、その場所は「獅子崎」と呼ばれるようになりました。また、文殊菩薩が説法した場所は「千歳の浦」と、説法の経を置いた場所は「経ヶ岬」と呼ばれるようになりました。

神々が島に降り立った後も、文殊菩薩はしばらくの間、宮津に留まっていました。そのため、龍神たちは文殊菩薩のところに集まり、戒を授かり弟子となりました。その場所をのちに「戒岩寺」と呼ぶようになりました。

その後、天の浮橋に龍神が一夜にして土を置いて新たな島を作りました。すると天女が降り立って松明を灯し、一夜にして「千代の姫子松」を植えました。松を植えている間に夜が明けてきたので、天女は松明を置いたまま天に帰って行きました。

松明が残された場所を「火置」(のちに転じて「日置」)と呼び、龍神が築き天女が松を植えた島は「天橋立」と呼ばれるようになりました。

こうして、天神七代・地神二代の合わせて九代にわたってできたこの土地は「九世戸くぜと」と名付けられたのでした。

平和になったことで人々が定住するようになると、改めて、天橋立に文殊菩薩を迎えることになりました。海には龍神の龍燈天には天燈が掲げられ、人々は海上に松明を照らして船を出し、文殊菩薩を迎えました。


天橋立成立伝説のまとめ

天橋立の成り立ち_伝説と逸話

以上、3つの伝説・逸話をご紹介しました。

上2つは同じように、天橋立を「神様が使った橋」と語っていましたが、最後の『九世戸縁起』「創られた島」と書いてあるのが違いとしてありましたね。これは、『九世戸縁起』は「智恩寺文殊堂の成立伝説」として伝わっているために、少し毛色が違っているのだと思います。

1つの名所の成り立ちの伝説がこうして異なる視点で描かれているのは、様々な考察ができそうで面白い点ですね!



自然現象から考える天橋立の成り立ち

文系な伝説の後は、理系な自然現象の視点から、天橋立の成り立ちを見ていきましょう!

砂洲にできた松並木

天橋立の成り立ち_自然_砂洲と松並木の絶景

天橋立は、湾口に砂や礫が堆積することでできる「砂洲さす」に、松林が自生することでできた特異な地形です。

砂洲の全長は約3.6km、幅は場所によって約20mから170mにまで至り、約8000本の松の木が立ち並ぶと言われる松並木のほとんどは自然発生したものです。

日本有数の景勝地でありながら公道にもなっている天橋立。まさに「天然の道」というわけなのです!

砂洲とは?

天橋立の成り立ち_自然_砂洲とは

地理の勉強をしたことがない人にとっては、砂洲は馴染みがない地形だと思います。

「沿岸」と呼ばれる湾の少し先の海には、「沿岸流」という決まった方向に流れる海流がみられることがあります。沿岸流は砂や礫を運んでおり、岸にぶつかったり海流の流れが弱まると、そこに砂礫が堆積していきます

最初は海中に溜まっていく砂礫ですが、長い年月をかけていくと、岸から伸びるように砂浜が海上に見られるようになります。それが砂嘴さしと呼ばれる地形になります。湾の方に向かって砂浜の先端が曲がり、鳥の口ばしのように見えることからこう呼ばれます。

さらに砂嘴に砂が溜まっていくと、ついには対岸にくっつくまで(あるいはくっつきそうなくらいまで)伸びていきます。この状態になったものを砂洲と呼ぶのです。

実は砂嘴と砂洲の明確な違いは公式には定義されていないのですが、一般的に言われている以上の定義に従うと、「天橋立は砂洲である」と言えますね!

ちなみに、砂洲によって堰き止められた湾を「潟湖せきこ(ラグーン)」と呼びます。天橋立の潟湖にも、実は「阿蘇海」という名前がついているのですよ!


天橋立の成り立ちの歴史

天橋立の成り立ち_自然_砂洲の歴史

では、天橋立の砂洲はどのようのしてできたのでしょうか?

もともと、湾口には海が広がっていた宮津湾。約6000年前(縄文時代の頃)に海中の堆積が急速に成長し、2000~3000年前に起きた地震で土砂が大量に流出したことで、砂礫の堆積物が海上にまで達したと考えられています。

曲がった形になることが多い砂嘴や砂洲ですが、天橋立はほぼ一直線の美しい砂洲となっています。

これは、宮津湾の沿岸流に、湾に流れ込む野田川の流れからできる湾内の海流がぶつかることによって、堆積物が真っ直ぐに整えられていったと考えられています。今では、天橋立は日本で唯一、外洋に面さない湾内の砂州となっています。



天橋立の歴史と日本文化の関わり

成り立ちを見終えた最後に、天橋立の文化的な側面を歴史とともに見ていきましょう!

天橋立と和歌・俳句

天橋立の歴史と日本文化の関わり_和歌・俳句

古くから、奇勝・名勝として知られてきたとされる天橋立。それは平安時代に詠まれた和歌から窺い知ることができます。

百人一首にある小式部内侍の和歌

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立

和泉式部

橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし

神の代に 神の通いし 道なれや 雲井に続く 天橋立

が代表例として挙げられますね!

江戸時代では与謝蕪村

はし立や 松は月日の こぼれ種

近世でも与謝野晶子

人おして 廻旋橋の 開くとき 黒雲動く 天橋立

という和歌を詠んでいます。


天橋立の歴史

天橋立の歴史と日本文化の関わり_日本三景

天橋立を、松島と宮島とともに「日本三景」と最初に呼んだのは、江戸時代の学者「貝原益軒かいばらえきけん」だと言われています。1689年(元禄2年)に刊行された貝原益軒の著書『己巳紀行きしきこう』において、天橋立の紹介の際に用いたそう。

第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)に国の特別名勝に指定され、3年後の1955年には若狭湾国定公園の指定区域となりました。

現在は、2007年に新設された丹後天橋立大江山国定公園の指定区域となっています。

天橋立の歴史と日本文化の関わり_文化的景観

文化的景観

近年、ユネスコの世界遺産では、自然遺産と文化遺産の中間に当たる「文化的景観」という視点も重視されています。日本の世界遺産の中では、「紀伊山地の霊場と参詣道」「石見銀山遺跡」がこの文化的景観にあたります。

実は、京都府や宮津市は「天橋立-日本の文化景観の原点」という名のもとに、文化庁に対し世界遺産の候補地としての提案を行ったことがあるのです。

残念ながら、登録候補となる「暫定リスト」には選ばれなかったのですが、2014年に「宮津天橋立の文化的景観」として重要文化的景観に選ばれています。将来的には、世界遺産の候補地となる可能性もまだまだある名所なのですよ!



天橋立の成り立ち まとめ

天橋立の成り立ち_伝説と砂洲と歴史と和歌

ということで今回は、天橋立の成り立ちについて、伝説と自然の両面からご紹介し、最後には歴史と日本文化との関わりをお届けしてきました!

ぜひここで知った知識をイメージしながら、天橋立の観光をしてみてください。さらにあなたの旅行が味わい深くなることを保証しますよ!