今回は、京都は伏見・深草に位置する伏見稲荷大社についてお届けしていきます!

伏見稲荷といえば、千本鳥居ですよね!

本来はたくさんの鳥居が並んでいる場所を“千本鳥居“と呼ぶのであって、千本鳥居は伏見稲荷の専売特許ではないのですが、今では「千本鳥居」というと伏見稲荷大社のことだと捉える人がほとんどなはず。

そんな伏見稲荷、みんなが想像する以上に“千本鳥居をしており“、しかもご利益が豊富なパワースポットでもあるのです!

“伏見稲荷大社の千本鳥居は、ただの千本鳥居ではない“というわけなのです!

というわけで、そんな伏見稲荷についてご紹介していきますよ!!

     

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伏見稲荷神社について

お稲荷さん」の愛称で親しまれる伏見稲荷大社は、全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社です。

JR京都駅から伏見稲荷大社のあるJR稲荷駅まではたったの2駅。

駅から降りた目の前が神社の参道となっており、文字通り、「京都駅から10分もあれば行ける」というアクセス抜群な神社になります。

また、京阪本線の伏見稲荷駅を利用しても伏見稲荷大社にアクセスすることができ、下車後徒歩約5分ほどで境内に入ることができます。

こちらから最短距離で行くと正面の表参道には出ないのですが、甘味処やお土産屋が並ぶ裏参道を行くことができますよ!

稲荷大社の本殿は稲荷山の麓に立っていますが、稲荷山全体が伏見稲荷大社の神域(神体山)とされているため、境内は稲荷山全体ということになっています。

これをすべてまわる「お山めぐり」をしようとすると、標高約233メートル・一周約4キロという山登りを3時間ほどすることになります。笑

もちろん、この稲荷山巡りをせずとも、俗にいう「伏見稲荷の千本鳥居」や奥の院といった有名どころはみることができるのでご安心くださいね!笑笑

そんな伏見稲荷大社最大の特徴は、拝観料は無料で、しかも閉門時間もなく24時間境内をみて回ることができることでしょう!

本殿や千本鳥居はもちろんのこと、稲荷山の参道も基本的には一晩中全区画で街灯がついているので、朱い鳥居に囲まれた夜のウォーキングを楽しむこともできますよ!

    

     

伏見稲荷大社の歴史

創建・「イナリ」の名について

まず、伏見稲荷大社の名称である「イナリ」という名の由来は、『山城国風土記』にある秦伊侶具(はたのいろぐ)のお話が有名です。

秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき(稲(いね)なり生(お)ひき)。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。

― 逸文『山城国風土記』

(大意)秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。そこで餅を使って弓の的としたところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、山(稲荷山のことだとされる)に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。その後子孫は先の過ちを悔いて社の木を抜き、家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。

また社伝では、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことや、当時全国的な天候不順で作物の不順が続いていたため、勅使を名山大川に遣し祈請し山背国の稲荷山に大神を祀ると五穀が稔って国が富んだ、とも伝えています。

この「稲荷山に大神を祀ると」の部分が、和銅4年(711年)2月の初午(はつうま)の日に、稲荷大社の祭神である稲荷大神が稲荷山に降臨したことを意味する」と伝えられていることから、和銅4年2月壬午を記念日として「初午大祭」を行うようになり、それと時を同じくして「稲荷祭」も興ったとされています。

そして、上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていました。

しかし、淳和天皇の天長4年(827年)正月辛巳の詔で「稲荷」の表記が使われて以来、公式の記述でも「稲荷」表記が定着していったと考えられています。

もっとも、これ以前から「稲荷」の表記はなされていたことを示す史料も見つかってるので、今ではより以前から「稲荷」の表記が用いられていたと考えられています。

「稲荷」という文字の由来は、その字の通り「稲がなり、その稲を荷っている」ところからというのが、一番オーソドックスな説ですね!

やはり、主祭神の稲荷神・宇迦之御魂(うかのみたま)の最初の権能である「穀物の神」という信仰があっての名前ということなのでしょう。

     

平安時代~伏見稲荷大社の隆盛~

天長4年(827年)、淳和天皇が病に倒れた理由が「東寺の塔を建てるために稲荷山の樹を伐ったことの祟り」であることが占いによって明らかとなり、それまで秦氏の私社であった稲荷大神に初めて従五位下の神階が下賜されました。

これを契機に、京の人々からは神社の立地から「巽(たつみ)の福神(東南方向の福の神)」としての崇敬を集めるようになりました。

このとき、現在の東寺(教王護国寺)との関係や、東寺を真言密教の根本道場として栄えさせた空海(弘法大師)との関係が結ばれたのではないかと言われています。
(東寺には、稲荷大社・稲荷大神について記された『稲荷大明神縁起』があるのです。)

その後、延喜8年(908年)に藤原時平の寄進により社殿が造営され、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には名神大社と二十二社の上七社に列せられ、天慶5年(942年)には神階の最高位である正一位が授けられました。

当時の神社の最高位である伊勢神宮は天皇以外の参拝が禁止されていたことや、京の都から近いという立地、さらに当時の京中の約3分の1にあたる地域が稲荷大社の産土地とされていたことなども後押しし、次第に平安でも随一の参詣者を集めるようになっていきます。

その様子は、『今昔物語や』清少納言の『枕草子』、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)の『蜻蛉日記』といった平安時代を代表する文学作品にも記されており、特に、遠方から初午に稲荷詣(初午詣)をする女性の様子が多く描かれています

参詣者が増えていったことで稲荷大社を代表する祭りである稲荷祭も規模も増していき、賀茂神社の葵祭(賀茂祭)や八坂の祇園祭とならぶ人気を博したといいます。

   

鎌倉時代~神仏習合と狐の眷属~

鎌倉時代に入ると、全国的に進んだ神仏習合の流れを稲荷大社も受けることとなり、神社の祭神にも本地仏が解釈されるようになります。

本地仏:本地垂迹(ほんじすいじゃく)ともいい、日本の八百万の神は、実は様々な仏や菩薩、天部なども含むが化身として日本の地に現れた権現であるとする考えのこと。

またこの時期、それまで宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)・「佐田彦大神(さたひこのおおかみ)」・「大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)」の三柱だった伏見稲荷神社の祭神に、「四大神(四之大神)(しのおおかみ)」と「田中大神(たなかのおおかみ)」が加わり、伏見稲荷大社の祭神が現在の五柱となります。

『稲荷大明神流記』には、
 ・一、大明神。本地十一面。(上御前是也)
 ・二、中御前。本地千手。(大明神之当御前也)
 ・三、大多羅之女。本地如意輪。(下御前是也。大明神之前御前也)
 ・四、四大神。本地毘沙門。(中御前御子。即同宿中御前)
 ・五、田中。本地不動。(先腹大多羅之女郎子也)
と記されているのですが、四大神と田中大神がどのような経緯によって祭神に加えられたのかはいまだに詳しいことが明らかとなっておらず、特に四大神についてはどんな神なのかさえわかっていないという、来歴がまったくもって謎な神となっています。笑

そして、この神仏習合が進んだ時期に、稲荷大社の“シンボル”ともいえる「眷属の狐」についての伝承も現れています。

そもそも、伏見稲荷大社をはじめとする稲荷大社における「神様」として狐(白狐)を連想するかもしれませんが、それは誤りです。

稲荷大社における狐は、稲荷大神の「眷属」という立場にあります。

「眷属」というのは、神の一族のような位置づけであり、他の神社で多くみられる「神の使い」ではないことが特徴です。

そんな稲荷大社の眷属に狐が選ばれるに至った由来には、いくつかの説があります。

まず一番有名なものは、稲荷の神が「食物の神」、つまり御饌神(みけつかみ)であり、その「みけつ」という言葉がいつの間に「御狐(おけつね)」や「三狐(みけつね)」に転じたことから、という説でしょう。

二つ目は、鎌倉時代に起きた神仏習合の際に、稲荷神が密教の荼枳尼天(だきにてん)と本迹(ほんじゃく)関係を結んだことが由来となったという説です。

本来の荼枳尼(ヒンドゥー教におけるダーキニー)は、屍肉を喰らう女鬼・魔女や、半裸で血器や短刀と屍肉を手にする姿などで描かれているのですが、『九尾の狐』や『玉藻前』といった中国から派生したとされる狐に関する寓話と混ざることで、次第に白狐にまたがる天女と解釈されるようになり、名前も荼枳尼“と呼ばれるようになります。

画像引用:Wikipedia荼枳尼天

そんな荼枳尼天と稲荷大社の祭神が習合したことで、天女がまたがる白狐がそのまま稲荷神の眷属とされたと考えられています。
(稲荷大神が女神である宇迦之御魂と同一視されていたことも影響していると思われますね!)

そして三つ目が、『稲荷流記』に記されたちょっとしたお話から生まれた説です。

それがこちら。

時は平安初期の弘仁年間(810~24)のこと、平安京の北郊、船岡山の麓に、年老いた狐の夫婦が棲んでいました。全身に銀の針を並べ立てたような白狐だったのです。この狐夫婦は、心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていました。とはいえ、畜生の身であっては、所詮その願いを果たすことはできない。そこで、狐夫婦はある日意を決し、五匹の子狐をともなって、稲荷山に参拝し、「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」と、社前に祈りました。すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神のおごそかな託宣がくだりました。
「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」こうして、狐夫婦は稲荷山に移り棲み稲荷神の慈悲と付託にこたえるべく日夜精進につとめることになりました。男狐はオススキ・女狐はアコマチという名を明神から授けられたとのことです。

伏見稲荷大社公式ホームページより

どの説も言われてみれば「なるほど~」と唸ってしまうものばかりですが、、
個人的には、物語調になっている2つ目と3つ目を推したいところですね!

なんだかロマンがあるじゃあないですか…!笑

    

応仁の乱~伏見稲荷も戦火の渦に~

伏見稲荷大社の産土地域である下京一帯は、時代を追うごとに商業地域として京の経済流通の中心的役割を担うようになっていました。

その豊かな経済力をもとに、稲荷祭に参加する鉾や山もその数を増やし、意匠もより豪華に趣向をこらしたものが多く出てきていたようです。

祭りが華やかになれば当然集まる人も増えるわけで、年に一度の稲荷祭の時には、老若男女の雑踏で演者の声や音曲がかき消されるほどであったとまで伝わっています。

まさに、
「経済がまわる」→「より大きく、豪華になる」→「人が集まる」→「参詣者・信仰者が増える」→「経済がまわる」→…
の好循環が生まれていたわけですね!

しかし、日本史上の転換点とも言われる応仁・文明の乱が起こると、伏見稲荷もまた状況が一変します。

畠山氏と斯波氏の家督争いから細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の後継者争いも加わったことで、全国へと戦場が広がった応仁の乱。

当時の日本の中心地である京都はこの内戦で壊滅的な被害を受けたことが知られていますが、伏見稲荷大社も例外ではありません。

応仁の乱が勃発した際、伏見稲荷に陣を置いたのは東軍・細川勝元側の足軽大将骨皮道賢でした。

稲荷山は、伏見や木幡、淀や鳥羽など、京都の南側地域を見下ろすには絶好の場所であったことから、骨皮道賢は稲荷山に陣取り、西軍・山名軍の糧道を絶ち、さらにはゲリラ戦を展開していました。

そんな戦局の中にあった応仁2年(1468年)3月、西軍は稲荷山に畠山義就の軍をさし向けます。

すると道賢軍はあっけなく攻め込まれ、陣形は崩壊。

骨皮道賢は逃走を試みますが、敗走中に討ち取られます。

結果、伏見稲荷に陣取っていた東軍は大敗という憂き目にあうこととなり、この合戦の際に、伏見稲荷大社は山中に建てられていた建物を含めすべてが焼き尽くされてしまいます。

このときの炎は、朝から昼過ぎにかけて燃え続けたといいます。

   

戦国時代から江戸時代~応仁の乱からの復興~

応仁の乱によって境内が焼き払われてしまった伏見稲荷大社。

終戦後は稲荷祭を行うことさえままならない状況だったそうですが、稲荷山での稲荷神への参詣や荼吉尼天への信仰は廃ることはなく、寄進を募ることで社殿の再建を進めていきました。

寄進の中でも有名なのは、豊臣秀吉からのものでしょう。

伏見城を築城するにあたり、伏見稲荷大社は整備された城下町から程近い神社となります。

この頃、秀吉は伏見稲荷大社を信仰していたといわれていて、さらに、天正16年(1588年)に母の大政所(おおまんどころ)の平癒を伏見稲荷に祈願し、結果これが成就したことから、その信仰心はより深まったといいます。

そこから秀吉は稲荷大社へ大規模な寄進を行い、伏見稲荷大社の社殿造築はさらに進んでいきました。
(現在の楼門は、この秀吉の寄進によって建てられたものなのですよ!)

江戸時代に入り、幕府が積極的に商業の保護に努めたことから商いが盛んになり、農業・商工業の神を祀る稲荷社は町人や商人から数多の信仰を集めるようになります。

この頃から、願い事が「通るように」、あるいは願い事が「通った」ことへのお礼を込めて、朱い鳥居を奉納する習慣が広まったとされています。

今では境内全体に1万基もの鳥居が並んでいると言われる「千本鳥居」の文化は、江戸時代に始まったものなのです!

   

明治から現在にかけて〜日本が誇る観光名所へ〜

慶応4年(明治元年、1868年)の神仏分離・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、伏見稲荷大社の本殿内の仏像類は廃され、明治政府によって境内地も4分の1に減らされます。

第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)には近代社格制度の廃止に伴い宗教法人化し、神社本庁からは独立した単立宗教法人となっています。

この際、社名が現在の「伏見稲荷大社」と改称されました。

そして近年では、朱い鳥居が並ぶという’the 日本的”な風景に加え、「お山めぐり」という欧米人が好む傾向にあるウォーキングを拝観料無料・時間自由で楽しめることから、外国からの観光客が特に増えています

これは、2019年まで6年連続でトリップアドバイザーの「外国人に人気の日本の観光スポット」で一位となっていることからもわかりますね!

  

  

伏見稲荷大社の祭神

古くから伏見稲荷大社をはじめとする稲荷社で信仰されているのは、厳密には稲荷神(稲荷大神)であり、祭神も厳密には「稲荷大神」になります。

ですが、伏見稲荷大社の祭神は
 ・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)(倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とも)
 ・佐田彦大神(さたひこのおおかみ)
 ・大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
 ・田中大神(たなかのおおかみ)
 ・四大神(しのおおかみ)
の五柱の神々とされています。
(ここまででも、わかりやすさ重視で「稲荷大社の祭神は宇迦之御魂神である」と書いた箇所があります。。)

これには、上述した内容も含めいくつかの経緯があります。

まず、穀物・農業の神である稲荷神と、同じく穀物や食物、農業の女神である「宇迦之御魂神」が同一視されたことから、伏見稲荷大社の主祭神が宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とされています。
(伏見稲荷大社では、「宇迦之御魂“大“神」と書かれます。)

この宇迦之御魂神の配神として、「佐田彦大神(さたひこのおおかみ)」と「大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)」も伏見稲荷大社の祭神とされました。
(この3神を合わせて「稲荷三神」と総称されます。)

そしてこの稲荷三神に、「田中大神(たなかのおおかみ)」と「四大神(しのおおかみ)」が鎌倉時代に起きた神仏習合の影響を受けて祭神に加えられ、現在ではこの五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀っているのです。

ちなみに、上に書いたように、稲荷神はもともと穀物や農業の神・五穀豊穣を司る神でしたが、時代が進むにつれて、商売繁盛や芸術上達の守護神として産業全体における神と解釈されるようになり、今では家内安全や交通安全守護神としても信仰されるようになっているのですよ!

   

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伏見稲荷大社を歩く

ではでは、実際に伏見稲荷大社の様子とともに、さらに詳しく境内の様子を見ていきましょう!

伏見稲荷大社の“顔”!稲荷山山麓

まずは、伏見稲荷大社の稲荷山山麓部分から見ていきましょう!

参道・楼門・本殿

まずは、京阪本線の伏見稲荷駅から向かう場合です!

裏参道と呼ばれる道ですね!
表参道と違い、駅から境内までにお土産屋や甘味処、屋台が並んでいるのが特徴ですね!

もう一つのアクセスである、JR奈良線の稲荷駅からはこんな感じです!

こちらが表参道!
表参道の一番鳥居から、楼門、舞殿(外拝殿)、内拝殿、本殿が一直線に並ぶのが特徴です。
楼門。豊臣秀吉とも縁がある建物になります!
舞殿
本殿です!
境内の至るところにいる狐。
実はくわえているものが異なり、それぞれに意味があるのです!
この狐がくわえている稲穂は「五穀豊穣」を、玉と鍵は玉鍵信仰から「万物の創世の理」を、巻物は「知恵」を表現しているとされています。
こちらの狐は巻物、「知恵」の象徴ですね!
こちらは本物の猫です。笑
こんなに堂々と。。慣れてるなぁ。笑
いよいよ千本鳥居です!

千本鳥居

江戸時代に始まったとされる鳥居の奉納。

稲荷山山中のものを含めると、その数は1万にも及ぶと言われています。

その中でも小さなものが間隔を開けずに並び立っているのが、本殿裏から奥の院へと繋がる道となっている通称千本鳥居ですね!

最初は大きな鳥居が出迎えてくれます。
ここからが千本鳥居です!

はい。

実はこの日はあまりに人が多かったので、ここでの写真撮影はほとんどしませんでした。笑

というわけで、千本鳥居の詳しい様子はこちらからご覧ください!!

奥の院

こちらが、「奥社奉拝所」とも呼ばれる伏見稲荷の奥の院になります!

この場所自体は「命婦谷」という言う。
置くタイプの鳥居、らしい。
こちらは「おもかる石」と呼ばれる試し石!
心の中で願い事を唱え、灯篭の上の石をゆっくりと持ちあげます。
石が軽ければ願いが叶い、重ければ難しい、という意味だそうですよ!

奥の院から先の順路は、再び鳥居の中を進みます。

というか、「伏見稲荷の順路=鳥居の中」ですね!笑

鳥居を裏から見ると、誰がいつ奉納したかが刻まれています。
こっちから見ると全然違った雰囲気で面白かったですよ!
鳥居は20年ほどで建て替えられるそうで、、
確かに、言われてみればどの鳥居も綺麗でしたね!

パワースポットとご利益の宝庫!稲荷山とお山めぐり

ここから、稲荷山を登る「お山めぐり」をしていきます!

冒頭にも書いたように、稲荷山は標高約233メートルで、お山めぐりには一周約4キロという道のりを2〜4時間かかります。

しっかり休めるのは、途中にある「四ツ辻」という山の中腹の休憩所のみ。

つまりは文字通り”歩きっぱなし”になりますので、お山めぐりに挑戦しようという方は、間違っても浴衣や着物に下駄、なんて格好で来ることはやめておきましょうね!笑

お山めぐりの間も、ひたすらに鳥居の中をくぐっていきます。
本当に異世界に迷い込んだみたいですよね!

お山めぐりの途中には、いくつか小さなお寺・お社があります。

応仁の乱で焼失する以前は稲荷山の山中の至るところにお社があったそうなのですが、その後それらは再建されることがなく、現在は神蹟地として残っています。

その中でも以下の7つは「七神蹟地」として選ばれ、親塚が建てられました。

  • 一ノ峰(上之社神蹟)ー末広大神
  • 二ノ峰(中之社神蹟)ー青木大神
  • 三ノ峰(下之社神蹟)ー白菊大神
  • 荒神峰(田中社神蹟)ー権太夫大神
  • 間ノ峰(荷田社神蹟)ー伊勢大神
  • 御膳谷遙拝所ー往古に三ヶ峰に神供をした所と伝えられている
  • 釼石(長者社神蹟)ー社殿の後ろに御神体の剱石があり、長者社には加茂玉依姫(かもたまよりひめ)を祀る

この七神蹟地以外にもお社はいくつもあり、中には御利益が有名なものもありますので、この後通るごとにご紹介していきます!

ここの名前はわからなかったのですが、ちょっと異質な雰囲気ですよね。
熊鷹社とヶ池

ここが「熊鷹社」と、その背後に広がる「ヶ池(こだまがいけ)(新池)」になります。

「行方不明になった人を探している時にこの池のほとりで手を叩き、こだまが返って来た方角に手がかりがあった」という言い伝えから「ヶ池(こだまがいけ)」という名がついたそうです。

ここから、「願いを叶えたいときにここで手を叩いてこだまをきく」という占いのようなものが生まれ、
こだまが帰ってきた方が「幸運の方向」で、早くこだまが帰ってくるほど「早く願い事が叶う」のだそうですよ!

ここで人が行方不明に、、
なんだろう、神隠し的なことを想像してしまうなぁ。。笑
池の周りには塚がたくさん立っています。
玉をくわえていますね。
こちらは巻物。
竹にいろいろ刻まれています。笑
外人さんがすることっぽいなぁ。。
順路とは逆へ進むと森の中へ入れましたが、、
特に何もありませんでした。笑笑
お塚が並んでいる様子。
谺ヶ池・熊鷹社までで、だいたい稲荷山の3分の1くらいです!
まだまだここからですね!
このへんからだんだん人が、特に日本人が減った印象です。笑
ちょっとおしゃれっぽく。
お社と鳥居。
七神蹟地ではありませんが、神蹟地の一つと思われる場所です!
外が見えた!
四ツ辻まではもう少しかな…!
四ツ辻

四ツ辻に到着しました!

山の中腹に位置する休憩所のような場所で、簡単な食事処もあります。

四ツ辻からの山中にある神蹟地(お塚)に参詣しながら稲荷山の周囲を一周するのが、お山めぐりの本番と言われており、ここでやっと半分といったところです。

四ツ辻からは3つの道が伸びています。

山頂を見て真ん中の道から右回り(時計回り)が正式な参拝順路と言われているそうですが、そこは気分でいきましょう!笑
(僕はそうと知らず、一番右の道から反時計回りで回りました。笑笑)

山頂に向かって右から二つの道が稲荷山お山めぐりの順路となっており、一番左の道は七神蹟地の一つである荒神峰と、祭神と同じ名前を冠した田中社が立っています。

すべての七神蹟地を巡りたいという方は行くべき場所ですが、そうでなければ“寄り道スポット”です。

ここまででも感じていましたが、お山めぐりをしているのは外人さんの割合が高かったですね!
ぶっちゃけ風景はちょっと見にくいです。笑

ちなみに、ここまで何度か書いている「お塚」というのは、「個人が石・岩に神名を刻んだもの」のことで、このお塚を稲荷山中の神蹟地周辺に朱塗りの小さな鳥居や白狐像などとともに奉納する信仰があるのです。

この風習は明治時代以降に盛んになったとされており、お塚の神名は、個人が稲荷神に寄せる信仰に基づき名付けられていると言われています。

個人が発端となった信仰が、今では多くの人の信仰も集めている、ということなのでしょう。

まさに、“人によって“生まれ、継承されてきた信仰、ということですね!

ではでは、お山めぐりの続きといきましょう!
にしてもこの鳥居は、考えれば考えるほど本当にすごいですよね…!
お塚が見えてきました!

七神蹟地の一つ、白菊大神を祀っている「三ノ峰(下之社神蹟)」です。

やはり神蹟地は独特な雰囲気です。
ここの鳥居は迫力があったなぁ。。
頂上!一ノ峰

青木大神を祀った二ノ峰(中之社神蹟)を経由し、ついに稲荷山の頂上にあたる「一ノ峰(上之社神蹟)」に到着しました!

一ノ峰では「末広大神」を祀っています。

一応ここが頂上名のですが、他の神蹟地と同様にお社とお塚があるだけで、展望台だったり見晴台みたいなものはないです。

正直、「え、ここが頂上?」ってなります。てかなりました。笑

パワーを感じることができればよし、何も感じなければ、、それはそれでよし!笑

願いが“末広に”叶い続けるように、お祈りだけはさせていただきましょう!

頂上なだけあって、お塚は他よりも広かった印象です。

ということで、ここからは基本的には下り道となっていきます!

鳥居の向きはすべて、「頂上に向かう者に対して正面になるように」立っていますので、帰りは文字が書かれている方が見えている状態になります。
なんだか呪いのような呪詛のようなまじないのような、、そんなふうに見えてきます。
朱い鳥居の間にちょくちょく石造りの鳥居も立っており、そこからは狐も見守ってくれています。
御劔社(長者社神蹟)

七神蹟地の一つである「御劔社(みつるぎしゃ)」です。

「長者社神蹟」の名前から「長者社」とも呼ばれ、社殿の後ろに御神体である釼石(雷石)が置かれています。

この御劔社では「賀茂玉依姫(かもたまよりひめ)」が祀られているのですが、本来なら上賀茂神社下鴨神社に関わる賀茂玉依姫(玉櫛媛)が、なぜ遠く離れた稲荷山のお社で祀られているかは未だ謎だそうです。。
(賀茂神社への信仰を持つ人が、ここにお塚を建てた、ということなのでしょうか。。)

ちゃんと手水舎がありました!
お塚は広め。
この暗さがいいかんじの雰囲気を醸し出していましたね…!

だいぶ暗くなってきましたね…!

うんうん、この雰囲気悪くない!!

薬力社

こちらは「薬力社」と呼ばれるお社で、稲荷山山中にあるパワースポットの一つです!

その名の通り「薬」に関わる御利益をいただけるとされており、無病息災、薬効、薬害防止、安産、医学技術向上、健康長寿から、家内安全や薬関係の職業や薬局、製薬会社などの商売繁盛まで、様々な権能を有しています。

こちらの湧き水は健康長寿に繋がると言われているのですよ!
山の中で聞く水音、なんか心地よかったなぁ。。
「ねがいかけ草鞋」を奉納することで、腰痛・身体健康・病気平癒・旅行安全を祈願するという慣しも。
上から見る千本鳥居って、なかなか新鮮ですよね!
御膳谷奉拝所と力松社

ふと現れた、お社とお塚。

ここは「御膳谷」と呼ばれる、稲荷山の三つの峰の渓谷が集まっている場所で、神蹟地の一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰を拝する聖地とされています。

毎年1月5日に「大山祭・山上の儀」が行われる場所になりますね!

御膳谷奉拝所の奥のお社祀っているのは「力松大神」です。
力松社の背後にはお塚郡が…!
この暗さも相まって、とっても厳かな雰囲気でした。
眼力社

口から竹筒を伸ばして水を流す特徴的な狐がシンボルとなっているのが、こちらの「眼力社」になります。

その名の通り「目の病」への効用はちろんのこと、「商売の目利き」や「先見の明」、さらには”がんりき”繋がりで「願力(入試、就職、結婚)」といったご利益もあると言われていますよ!

狐が水を吐いているという珍しい光景は、“稲荷的“なものだと感じました。
これだけでも見てほしいですね…!
眼力社前から、並ぶ千本鳥居。
大杉社

こちらは「大杉社」と呼ばれる祠になります。

小さな鳥居が列をなしている先に拝所があり、その背後に御簾に囲まれて注連縄を巻いた枯木が立っているのが目印です。

これが大杉社の由来となったご神木だとされています。

ということで、四ツ辻まで戻ってきました!

大松社

瓢箪型のお塚が特徴的なのが、こちらの「大松社」です。

祀られている大松大神はお酒の神様として知られているだけでなく、良縁のご利益もあるみたいですよ!

こちらが瓢箪型の大岩!
行きも通ったはずなのですが、、完全にスルーしていました。笑

夜の伏見稲荷大社

お山めぐりのご案内は以上になります!

ここからは「夜の伏見稲荷大社」をお楽しみください!!

山中は暗すぎてうまく撮れなくなってしまいました。。

山を降りてきました!

僕は2時間ちょっとのお山めぐりでしたが、結構早く歩いていたのでこの時間になったと思います。

やはり、最低でも2時間半〜3時間は見てお山めぐりはするべきですね!

まだいたのか君。
遠くから楼門。
本殿も幻想的。
東丸神社

ここで、伏見稲荷大社の境内の中にある神社をちょっとご紹介させてもらいます。

こちら、「東丸」と書いて「あずまま“ろ“」と読む「東丸神社」になります。

なぜ伏見稲荷の境内に別の神社があるのかというと、この神社で祀られているのが、稲荷大社社家である荷田(かだの)氏一族である「荷田春満(かだのあずままろ)」だからです。

江戸時代の国学の第一人者であった荷田春満は、ここ伏見稲荷大社の社家の出だった関係から自宅が境内にあり、その旧宅は現在に至るまでこの地に保存されています。

そして、のちに賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に「国学の四大人」と称された荷田春満を祭神とする東丸神社を旧宅の一角に建てたことで、結果として伏見稲荷大社の境内に別の神社が立ったわけなのです。

ちなみに、社名の「東丸」は荷田春満自身が書いていた名前だそうで、現在は「学問の神様」として高い人気を集めています。

東丸神社には、こうして千羽鶴や、、
絵馬がたくさん奉納されています!

では、境内に戻りましょう!

楼門ですね!
こちらは舞殿。
楼門の正面にきました!
夜に浮き上がる楼門と鳥居!
夜の雰囲気も最高です!!

    

~伏見稲荷大社gallery~

ここからは改めて、、

後日、早朝の人がいない時間帯で撮影した

伏見稲荷の千本鳥居の様子をお届けしていきます!

この人の少なさ!
現在7時30分をすぎたところです。
やはり撮影は朝に限りますね〜!
千本鳥居に到着です!
そうそう、右側通行、守りましょうね!!
狐さまの皆さんもおはようございます。
ちなみに、この最初の千本鳥居が伏見稲荷では唯一、鳥居が横並びで立っている場所なのだそうです!
確かに、他の場所にはなかった気がするなぁ。。
復路の左から。
右の往路を進みます!
カメラの光の取り込み方によって雰囲気が随分と変わります。
振り向くとこんな感じ。
文字側からの雰囲気も好きです。
これは提灯、それとも灯籠?
神主さん。
奥の院のところまで来ました!
奥の院まできた証明。笑
とりあえず先へ!
確かに、朝のウォーキングにぴったりかもしれない…!
この並んでいるの、結構お気に入りです!笑

からのもう一周!笑

今回は、最初の千本鳥居の左右を使って往復します!
(奥の院から先へはいかず、横並びの千本鳥居の左側(奥の院から見たら右側)を使って帰ってきます!)

奥の院までは時間をすっ飛ばしますね!笑
そして、この復路を使っていて気づいたことが一つ。
奥の院に着いたら、ほとんどの人がそのまま順路を辿って先へ進むんです。
つまり、この復路は人が多い時間でも比較的人の少ない“穴場”になるのでは!ということなのです!!
こうして振り向く分には、“逆走”にもなりませんからね!笑笑
日中しか時間がない方は、
この“復路作戦”を使って写真を撮ると良いのではないでしょうか!!
ということで、しばしギャラリータイムです!
ここは縦写真が活きる空間。

ということで、千本鳥居での撮影を終えて本殿の方へ戻ってきました。

この時点で8時半です。

舞殿前から一直線ですね!
素晴らしい朝をありがとうございました!!

    

伏見稲荷大社のまとめ

ということで、今回は日本のみならず海外からも絶大な人気を誇る京都の観光地伏見稲荷大社をご紹介してきました!

もはや伏見稲荷の代名詞である「千本鳥居」はもちろんのこと、神秘的で幻想的、そして荘厳な雰囲気や稲荷山のパワースポット巡りを楽しめる「お山めぐり」など、実に多くの見どころがある伏見稲荷大社。

是非あなたも、朱く彩られた鳥居の下をゆく“異世界体験”を堪能してみてくださいね!!

    

伏見稲荷大社の観光情報

拝観時間

24時間・無休

料金

無料

観光のおすすめ時間

早朝・夜遅く
(順路は守り、日が出ていないうちは足元に十分お気をつけください。)

アクセス

JR奈良線 稲荷駅下車後、すぐ(京都駅より5分)

京阪本線 伏見稲荷駅下車後、徒歩5分

南5系統 稲荷大社前下車後、徒歩7分

駐車場は境内南西にあり。

ただし、神社は公共交通機関の使用をお願いしています。

      

もちろん、鳥居の奉納も可能ですよ!
伏見稲荷大社公式ホームページより