みなさんこんにちは!旅狼かいとです!

今回は、京都は伏見・深草に位置する伏見稲荷大社についてお届けしていきます!

伏見稲荷といえば、千本鳥居ですよね!

本来はたくさんの鳥居が並んでいる場所を“千本鳥居“と呼ぶのであって、千本鳥居は伏見稲荷の専売特許ではないのですが、今では「千本鳥居」というと伏見稲荷大社のことだと捉える人がほとんどなはず。

そんな伏見稲荷、みんなが想像する以上に“千本鳥居をしており“、しかもご利益が豊富なパワースポットでもあるのです!

“伏見稲荷大社の千本鳥居は、ただの千本鳥居ではない“というわけなのです!

というわけで、そんな伏見稲荷についてご紹介していきますよ!!

     

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伏見稲荷神社について

伏見稲荷_千本鳥居

お稲荷さん」の愛称で親しまれる伏見稲荷大社は、全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社です。

JR京都駅から伏見稲荷大社のあるJR稲荷駅まではたったの2駅。

駅から降りた目の前が神社の参道となっており、文字通り、京都駅から10分もあれば行ける」というアクセス抜群な神社になります!

また、京阪本線の伏見稲荷駅を利用しても伏見稲荷大社にアクセスすることができ、下車後徒歩約5分ほどで境内に入ることができます。

こちらから最短距離で行くと正面の表参道には出ないのですが、甘味処やお土産屋が並ぶ裏参道を行くことができますよ!

稲荷大社の本殿は稲荷山の麓に立っていますが、稲荷山全体が伏見稲荷大社の神域(神体山)とされているため、境内は稲荷山全体ということになっています。

これをすべてまわるお山めぐりをしようとすると、標高約233メートル・一周約4キロという山登りを計3時間ほどすることになります。笑

もちろん、この稲荷山巡りをせずとも、俗にいう「伏見稲荷の千本鳥居」や奥の院といった有名どころはみることができるのでご安心くださいね!笑笑

そんな伏見稲荷大社最大の特徴は、拝観料は無料で、しかも閉門時間もなく24時間境内をみて回ることができることでしょう!

本殿や千本鳥居はもちろんのこと、稲荷山の参道も基本的には一晩中全区画で街灯がついているので、朱い鳥居に囲まれた夜のウォーキングを楽しむこともできますよ!

    

伏見稲荷大社の歴史

創建・「イナリ」の名について

伏見稲荷大社_拝殿

まず、伏見稲荷大社の名称である「イナリ」という名の由来は、『山城国風土記』にある秦伊侶具(はたのいろぐ)のお話が有名です。

秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき(稲(いね)なり生(お)ひき)。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。

― 逸文『山城国風土記』

(大意)秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。そこで餅を使って弓の的としたところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、山(稲荷山のことだとされる)に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。その後子孫は先の過ちを悔いて社の木を抜き、家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。

また社伝では、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことや、当時全国的な天候不順で作物の不順が続いていたため、勅使を名山大川に遣し祈請し山背国の稲荷山に大神を祀ると五穀が稔って国が富んだ、とも伝えています。

この「稲荷山に大神を祀ると」の部分が、和銅4年(711年)2月の初午(はつうま)の日に、稲荷大社の祭神である稲荷大神が稲荷山に降臨したことを意味する」と伝えられていることから、和銅4年2月壬午を記念日として「初午大祭」を行うようになり、それと時を同じくして「稲荷祭」も興ったとされています。

そして、上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていました。

しかし、淳和天皇の天長4年(827年)正月辛巳の詔で「稲荷」の表記が使われて以来、公式の記述でも「稲荷」表記が定着していったと考えられています。

もっとも、これ以前から「稲荷」の表記はなされていたことを示す史料も見つかってるので、今ではより以前から「稲荷」の表記が用いられていたと考えられています。

「稲荷」という文字の由来は、その字の通り「稲がなり、その稲を荷っている」ところからというのが、一番オーソドックスな説ですね!

やはり、主祭神の稲荷神・宇迦之御魂(うかのみたま)の最初の権能である「穀物の神」という信仰があっての名前ということなのでしょう。

     

平安時代~伏見稲荷大社の隆盛~

伏見稲荷大社_一の鳥居と楼門

天長4年(827年)、淳和天皇が病に倒れた理由が「東寺の塔を建てるために稲荷山の樹を伐ったことの祟り」であることが占いによって明らかとなり、それまで秦氏の私社であった稲荷大神に初めて従五位下の神階が下賜されました。

これを契機に、京の人々からは神社の立地から「巽(たつみ)の福神(東南方向の福の神)」としての崇敬を集めるようになりました。

このとき、現在の東寺(教王護国寺)との関係や、東寺を真言密教の根本道場として栄えさせた空海(弘法大師)との関係が結ばれたのではないかと言われています。
(東寺には、稲荷大社・稲荷大神について記された『稲荷大明神縁起』があるのです。)

その後、延喜8年(908年)に藤原時平の寄進により社殿が造営され、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には名神大社と二十二社の上七社に列せられ、天慶5年(942年)には神階の最高位である正一位が授けられました。

当時の神社の最高位である伊勢神宮は天皇以外の参拝が禁止されていたことや、京の都から近いという立地、さらに当時の京中の約3分の1にあたる地域が稲荷大社の産土地とされていたことなども後押しし、次第に平安でも随一の参詣者を集めるようになっていきます。

その様子は、『今昔物語や』清少納言の『枕草子』、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)の『蜻蛉日記』といった平安時代を代表する文学作品にも記されており、特に、遠方から初午に稲荷詣(初午詣)をする女性の様子が多く描かれています

参詣者が増えていったことで稲荷大社を代表する祭りである稲荷祭も規模も増していき、賀茂神社の葵祭(賀茂祭)や八坂の祇園祭とならぶ人気を博したといいます。

   

鎌倉時代~神仏習合と狐の眷属~

伏見稲荷大社_お山登り

鎌倉時代に入ると、全国的に進んだ神仏習合の流れを稲荷大社も受けることとなり、神社の祭神にも本地仏が解釈されるようになります。

本地仏:本地垂迹(ほんじすいじゃく)ともいい、日本の八百万の神は、実は様々な仏や菩薩、天部なども含むが化身として日本の地に現れた権現であるとする考えのこと。

またこの時期、それまで宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)・「佐田彦大神(さたひこのおおかみ)」・「大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)」の三柱だった伏見稲荷神社の祭神に、「四大神(四之大神)(しのおおかみ)」と「田中大神(たなかのおおかみ)」が加わり、伏見稲荷大社の祭神が現在の五柱となります。

『稲荷大明神流記』には、
 ・一、大明神。本地十一面。(上御前是也)
 ・二、中御前。本地千手。(大明神之当御前也)
 ・三、大多羅之女。本地如意輪。(下御前是也。大明神之前御前也)
 ・四、四大神。本地毘沙門。(中御前御子。即同宿中御前)
 ・五、田中。本地不動。(先腹大多羅之女郎子也)
と記されているのですが、四大神と田中大神がどのような経緯によって祭神に加えられたのかはいまだに詳しいことが明らかとなっておらず、特に四大神についてはどんな神なのかさえわかっていないという、来歴がまったくもって謎な神となっています。笑

そして、この神仏習合が進んだ時期に、稲荷大社の“シンボル”ともいえる「眷属の狐」についての伝承も現れています。

伏見稲荷大社_お稲荷様

そもそも、伏見稲荷大社をはじめとする稲荷大社における「神様」として狐(白狐)を連想するかもしれませんが、それは誤りです。

稲荷大社における狐は、稲荷大神の「眷属」という立場にあります。

「眷属」というのは、神の一族のような位置づけであり、他の神社で多くみられる「神の使い」ではないことが特徴です。

そんな稲荷大社の眷属に狐が選ばれるに至った由来には、いくつかの説があります。

まず一番有名なものは、稲荷の神が「食物の神」、つまり御饌神(みけつかみ)であり、その「みけつ」という言葉がいつの間に「御狐(おけつね)」や「三狐(みけつね)」に転じたことから、という説でしょう。

二つ目は、鎌倉時代に起きた神仏習合の際に、稲荷神が密教の荼枳尼天(だきにてん)と本迹(ほんじゃく)関係を結んだことが由来となったという説です。

本来の荼枳尼(ヒンドゥー教におけるダーキニー)は、屍肉を喰らう女鬼・魔女や、半裸で血器や短刀と屍肉を手にする姿などで描かれているのですが、『九尾の狐』や『玉藻前』といった中国から派生したとされる狐に関する寓話と混ざることで、次第に白狐にまたがる天女と解釈されるようになり、名前も荼枳尼“と呼ばれるようになります。

画像引用:Wikipedia荼枳尼天

そんな荼枳尼天と稲荷大社の祭神が習合したことで、天女がまたがる白狐がそのまま稲荷神の眷属とされたと考えられています。
(稲荷大神が女神である宇迦之御魂と同一視されていたことも影響していると思われますね!)

そして三つ目が、『稲荷流記』に記されたちょっとしたお話から生まれた説です。

それがこちら。

時は平安初期の弘仁年間(810~24)のこと、平安京の北郊、船岡山の麓に、年老いた狐の夫婦が棲んでいました。全身に銀の針を並べ立てたような白狐だったのです。この狐夫婦は、心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていました。とはいえ、畜生の身であっては、所詮その願いを果たすことはできない。そこで、狐夫婦はある日意を決し、五匹の子狐をともなって、稲荷山に参拝し、「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」と、社前に祈りました。すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神のおごそかな託宣がくだりました。
「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」こうして、狐夫婦は稲荷山に移り棲み稲荷神の慈悲と付託にこたえるべく日夜精進につとめることになりました。男狐はオススキ・女狐はアコマチという名を明神から授けられたとのことです。

伏見稲荷大社公式ホームページより

どの説も言われてみれば「なるほど~」と唸ってしまうものばかりですが、、
個人的には、物語調になっている2つ目と3つ目を推したいところですね!

なんだかロマンがあるじゃあないですか…!笑

    

応仁の乱~伏見稲荷も戦火の渦に~

伏見稲荷大社_お山巡り

伏見稲荷大社の産土地域である下京一帯は、時代を追うごとに商業地域として京の経済流通の中心的役割を担うようになっていました。

その豊かな経済力をもとに、稲荷祭に参加する鉾や山もその数を増やし、意匠もより豪華に趣向をこらしたものが多く出てきていたようです。

祭りが華やかになれば当然集まる人も増えるわけで、年に一度の稲荷祭の時には、老若男女の雑踏で演者の声や音曲がかき消されるほどであったとまで伝わっています。

まさに、
「経済がまわる」→「より大きく、豪華になる」→「人が集まる」→「参詣者・信仰者が増える」→「経済がまわる」→…
の好循環が生まれていたわけですね!

しかし、日本史上の転換点とも言われる応仁・文明の乱が起こると、伏見稲荷もまた状況が一変します。

畠山氏と斯波氏の家督争いから細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の後継者争いも加わったことで、全国へと戦場が広がった応仁の乱。

当時の日本の中心地である京都はこの内戦で壊滅的な被害を受けたことが知られていますが、伏見稲荷大社も例外ではありません。

応仁の乱が勃発した際、伏見稲荷に陣を置いたのは東軍・細川勝元側の足軽大将骨皮道賢でした。

稲荷山は、伏見や木幡、淀や鳥羽など、京都の南側地域を見下ろすには絶好の場所であったことから、骨皮道賢は稲荷山に陣取り、西軍・山名軍の糧道を絶ち、さらにはゲリラ戦を展開していました。

そんな戦局の中にあった応仁2年(1468年)3月、西軍は稲荷山に畠山義就の軍をさし向けます。

すると道賢軍はあっけなく攻め込まれ、陣形は崩壊。

骨皮道賢は逃走を試みますが、敗走中に討ち取られます。

結果、伏見稲荷に陣取っていた東軍は大敗という憂き目にあうこととなり、この合戦の際に、伏見稲荷大社は山中に建てられていた建物を含めすべてが焼き尽くされてしまいます。

このときの炎は、朝から昼過ぎにかけて燃え続けたといいます。

   

戦国時代から江戸時代~応仁の乱からの復興~

伏見稲荷大社_楼門

応仁の乱によって境内が焼き払われてしまった伏見稲荷大社。

終戦後は稲荷祭を行うことさえままならない状況だったそうですが、稲荷山での稲荷神への参詣や荼吉尼天への信仰は廃ることはなく、寄進を募ることで社殿の再建を進めていきました。

寄進の中でも有名なのは、豊臣秀吉からのものでしょう。

伏見城を築城するにあたり、伏見稲荷大社は整備された城下町から程近い神社となります。

この頃、秀吉は伏見稲荷大社を信仰していたといわれていて、さらに、天正16年(1588年)に母の大政所(おおまんどころ)の平癒を伏見稲荷に祈願し、結果これが成就したことから、その信仰心はより深まったといいます。

そこから秀吉は稲荷大社へ大規模な寄進を行い、伏見稲荷大社の社殿造築はさらに進んでいきました。
(現在の楼門は、この秀吉の寄進によって建てられたものなのですよ!)

江戸時代に入り、幕府が積極的に商業の保護に努めたことから商いが盛んになり、農業・商工業の神を祀る稲荷社は町人や商人から数多の信仰を集めるようになります。

この頃から、願い事が「通るように」、あるいは願い事が「通った」ことへのお礼を込めて、朱い鳥居を奉納する習慣が広まったとされています。

今では境内全体に1万基もの鳥居が並んでいると言われる「千本鳥居」の文化は、江戸時代に始まったものなのです!

   

明治から現在にかけて〜日本が誇る観光名所へ〜

伏見稲荷大社_夜の一の鳥居と楼門

慶応4年(明治元年、1868年)の神仏分離・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、伏見稲荷大社の本殿内の仏像類は廃され、明治政府によって境内地も4分の1に減らされます。

第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)には近代社格制度の廃止に伴い宗教法人化し、神社本庁からは独立した単立宗教法人となっています。

この際、社名が現在の「伏見稲荷大社」と改称されました。

そして近年では、朱い鳥居が並ぶという’the 日本的”な風景に加え、「お山めぐり」という欧米人が好む傾向にあるウォーキングを拝観料無料・時間自由で楽しめることから、外国からの観光客が特に増えています

これは、2019年まで6年連続でトリップアドバイザーの「外国人に人気の日本の観光スポット」で一位となっていることからもわかりますね!

  

伏見稲荷大社の祭神

伏見稲荷大社_千本鳥居

古くから伏見稲荷大社をはじめとする稲荷社で信仰されているのは、厳密には稲荷神(稲荷大神)であり、祭神も厳密には「稲荷大神」になります。

ですが、伏見稲荷大社の祭神は
 ・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)(倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とも)
 ・佐田彦大神(さたひこのおおかみ)
 ・大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
 ・田中大神(たなかのおおかみ)
 ・四大神(しのおおかみ)
の五柱の神々とされています。
(ここまででも、わかりやすさ重視で「稲荷大社の祭神は宇迦之御魂神である」と書いた箇所があります。。)

これには、上述した内容も含めいくつかの経緯があります。

まず、穀物・農業の神である稲荷神と、同じく穀物や食物、農業の女神である「宇迦之御魂神」が同一視されたことから、伏見稲荷大社の主祭神が宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とされています。
(伏見稲荷大社では、「宇迦之御魂“大“神」と書かれます。)

この宇迦之御魂神の配神として、「佐田彦大神(さたひこのおおかみ)」と「大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)」も伏見稲荷大社の祭神とされました。
(この3神を合わせて「稲荷三神」と総称されます。)

そしてこの稲荷三神に、「田中大神(たなかのおおかみ)」と「四大神(しのおおかみ)」が鎌倉時代に起きた神仏習合の影響を受けて祭神に加えられ、現在ではこの五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀っているのです。

ちなみに、上に書いたように、稲荷神はもともと穀物や農業の神・五穀豊穣を司る神でしたが、時代が進むにつれて、商売繁盛や芸術上達の守護神として産業全体における神と解釈されるようになり、今では家内安全や交通安全守護神としても信仰されるようになっているのですよ!

   

それでは次ページから、伏見稲荷大社へ実際に足を運んできた様子とともに、さらに詳しくご紹介していきます!

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⇨次ページへ!!(実際に行ってきた様子!)

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