みなさんこんにちは!旅狼かいとです!
今回ご紹介する「上賀茂神社」は、「賀茂神社」として上賀茂神社の南に位置する下鴨神社とともに「古都京都の文化財」の一部として世界文化遺産に登録されている神社です。
京都最古とも言われるその歴史から「京都の隠れた最強パワースポット」なんて呼ばれ方をしている上賀茂神社ですが、実際に足を運んでみると、僕も本当に不思議な雰囲気を感じたのです…!!
そんな歴史積もる京都の中でも屈指の歴史と神性を誇る上賀茂神社について、歴史や見どころ、アクセスなどの旅行の際に知っておきたい情報をお届けしていきます!
〜もくじ〜
上賀茂神社の歴史

正式名称を「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」という上賀茂神社は、第四十代天皇である天武天皇の時代には建立されていたといわれるほどの歴史を持ちます。
これは、平安時代から日本の中心地であった京都の中でも最古の歴史となります。
上賀茂神社の創建については諸説ありますが、ここでは社伝として伝わる『山城國風土記逸文』の『賀茂舊記』に記されている内容をご紹介します。

神代にまで遡った太古の昔、天上で雷鳴が轟き、一本の丹塗矢(にぬりのや)が降ってきました。
その後わずかばかりか経った頃、「玉依比売命(たまよりひめのみこと、「玉櫛媛」「玉依姫」とも)」が石川の瀬見の小川(現在の賀茂川の上流)で身を清めていると、川上より丹塗矢が流れてくるのを見つけます。
不思議に思った玉櫛媛は丹塗矢を持ち帰り、丁重に床に祀りました。
その晩、眠っていた玉櫛媛は矢に込められた力によって懐妊し、一人の赤子を産みます。
「御子神(みこがみ)」と呼ばれることとなる赤子はすくすくと成長し、やがて元服(現代で言う成人)を迎えた際、玉櫛媛の父(つまりは御子神の祖父)であり一族の長でもあった賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が、数多の神々を招いて七日七夜の祝宴を催します。
いまだに父の存在が不明な御子神に対し、賀茂建角身命は「父と思う神に盃をすすましめよ」と尋ねて盃を渡します。
すると御子神は、「我が父は天津神(あまつかみ)なり」と声高に言うとともに盃を天上に向けて投げると、天井を突き破って雷鳴とともに天へ昇ってしまいます。
(「天津神」というのは日本神話における天上の世界「高天原(たかあまはら)」に住う神々のこと。)
あまりに突然の別れから、残された玉櫛媛は息子の御子神に再び会いたいと願い続けます。
そしてある夜、玉櫛媛の夢に御子神が顕れ、「吾れに逢はんとは、天羽衣・天羽裳を造り、火を炬き鉾を捧げ、又走馬を餝り、奥山の賢木を採りて阿札に立て、種々の綵色を垂で、また葵楓の蔓を造り、厳しく餝りて吾をまたば来む」とお告げを伝えます。
玉櫛媛はすぐにその神託に従って、神迎の祭を執り行いました。
するとお告げの通り、立派な成人の姿となった御子神が神山(こうやま)に降臨したのです。
この御子神こそが上賀茂神社の祭神である「賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)」であり、玉櫛媛が執り仕切った賀茂別雷大神を迎えるための祭を行った場所が、上賀茂神社の起源とされているのです。
(ちなみに、玉櫛媛を懐妊させた丹塗矢の正体は「火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)」や「大山咋神(おおやまくいのかみ)」であるとされています。)

創建後の上賀茂神社は、玉依比売命(玉櫛媛)の兄「賀茂玉依日古命(かもたまよりひこのみこと)」を祖とする賀茂一族の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)(下鴨神社)とともに「賀茂神社(賀茂社)」と総称され、朝廷からの崇敬を受けることになります。
(下鴨神社こと賀茂御祖神社の祭神は、賀茂別雷大神の母である「玉依比売命(玉櫛媛)」と祖父である「賀茂建角身命」です。)
上賀茂神社は、延暦13年(794年)の平安遷都後には「皇城鎮護の神社」として一層の崇敬を受けることとなり、大同2年(807年)には神社における神階の最高位である「正一位」を受けました。
さらに弘仁元年(810年)以降の約400年にわたっては、伊勢神宮の「斎宮」に倣った「斎院」が置かれ、皇女が斎王として奉仕した歴史も持ちます。
(伊勢神宮の「斎王」や「斎宮」というのは、天皇の代替わり毎に置かれた、天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として伊勢神宮に奉仕する役割を持つ未婚の皇女のことです。)
以降長きにわたって皇室からの崇敬を受け続けた上賀茂神社は、明治時代の近代社格制度においても伊勢神宮に次ぐ官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められました。
このように、上賀茂神社は創建当初から現代に至るまで、朝廷・天皇とは切っても切り離せない由緒ある神社と言えるのです。
上賀茂神社の社祭「葵祭」

上賀茂神社最大の見どころと言われるのが、京都三大祭りにも数えられる「葵祭」になります。
かつては「賀茂祭」と呼ばれていたこの祭りは、平安時代から続く日本でも最古の部類に入る祭りで、正一位に据えられた大同2年(807年)に勅祭とされています。
葵祭(賀茂祭)の起源は、玉依比売命(玉櫛媛)が息子である賀茂別雷大神を迎えるために行った祭りであるとされています。
この玉櫛媛が行った祭りの際、玉櫛媛が夢の中で「葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭をせよ」と賀茂別雷大神からお告げを受けて葵を用いたところから、賀茂祭においても社殿に葵を飾り、祭の奉仕者が葵を身に付けるようになったみたいですね!
このエピソードから、賀茂祭は「葵祭」とも呼ばれるようになったと言われています。
玉櫛媛のお話に加え、北東の杜に二葉葵が群生していることが理由となって、葵が上賀茂神社における重要な植物として扱われていると考えられがちなのですが、実は「葵」という言葉そのものにも重要な意味があるのです。
というのも、「葵」という言葉は、古くは「あふひ」と読み、「ひ」は「神霊」を意味したことから、「葵」は「神と逢うこと」や「神と逢う日」を意味する言葉でした。
この言葉の意味も相まって、上賀茂神社の神紋として扱われると同時に、大切に守られてきたと考えられますよね!

話を葵祭に戻しましょう。
葵祭最大の見どころは、全行程で約8kmにも及ぶ京都御所から下鴨神社(賀茂御祖神社)を経て上賀茂神社(賀茂別雷神社)に至る道のりを、色とりどりの平安装束で装った人々の行列が練り歩く「路頭の儀(ろとうのぎ)」でしょう!
もともとは、玉櫛媛が息子である賀茂別雷大神を再びこの現世に迎えるために行なった祭を模していた賀茂祭でしたが、弘仁元年(810年)に斎院が置かれるようになると、斎王が賀茂祭に祀られ、祭りに奉仕するようになります。
このことから、建暦2年(1212年)に斎院制度が終わりを迎えるまでは、斎王が(現在の葵祭では斎王に代わる「斎王代」が)路頭の儀における中心的な役割・存在を担っています。
また、平安時代に行われていた賀茂祭では、社頭における祭儀は一般の人々にはほとんど公開されていなかったそうですが、御所から上賀茂神社への行装は見ることができたため、皇族・貴族たちは牛車を並べるか檜皮葺(ひわだぶき)の桟敷を設け、一般の人々は京の住民のみならず地方から上京してきた人々もつめかけ、街は大きな賑わいを見せていたと言われています。
この様子は『源氏物語』をはじめとする、平安時代に書かれた日記や物語などの書物にも記されているほどなのですよ!

賀茂祭は室町時代中頃から衰退してしまい、応仁の乱以降は京の町の混乱とともに完全に廃れてしまいます。
その後約200年の時を経て、江戸時代の元禄7年(1694年)に上賀茂・下鴨両神社、朝廷・公家、幕府の協力によって祭が再興され、明治時代に入るまで執り行われました。
明治時代初期に一時期の中断を経て、明治17年(1884年)に明治天皇によって、春日大社の春日祭と石清水八幡宮の石清水祭と共に「日本三勅祭」の一つとして三度祭儀が再開されることとなりました。
毎年5月15日に行われる葵祭こと賀茂祭。僕もぜひ一度、観てみたいものです…!
いざ、上賀茂神社へ!

ではでは、上賀茂神社へ実際に足を運んだ際の様子を、境内の見どころ・案内とともにご紹介していきましょう!






こちらは上賀茂神社の「神馬(しんめ)舎」になります。

「神馬(しんめ)」というのは、神さまが騎乗する馬として神聖視される馬のことで、神社に奉納されたり祭事の際に登場したりという役割を担います。
神馬の種類は白馬であることが多く、ここ上賀茂神社の神馬「神山号(こうやまごう)」も白馬です。
神山号は、日曜祝日と大きいお祭りのある9時半〜15時に出社しており、神馬にニンジンをあげたり、「神馬お守り」や「神馬みくじ」といった、このときにしか手に入らないものが授与されています。
僕が行った際は残念ながらお留守の日でしたので、今度は神馬がいらっしゃるときに行こうと思います!

写真にある「式年遷宮」とは、20年に一度、境内自体はそのままに社殿や神宝をはじめとする境内の中身すべてを一新し、祭神に新しく清浄な境内・社殿へと遷ってもらうための儀式になります。
もともと伊勢神宮で行われていた式年遷宮を、奈良時代に上賀茂神社でも行うようになったのが始まりとされ、平成27年(2015年)に第42回の式年遷宮が行われました。
(伊勢神宮の式年遷宮も今なお行われています。)
江戸時代までは式年遷宮のたびに社殿を造り替えていましたそうですが、現在は社殿の多くが国宝や重要文化財に指定されているため、主に社殿の檜皮葺屋根の修復を行うことで遷宮としています。
ともあれこの式年遷宮のおかげで、境内が他の場所に移ることなく、また、創建当初の姿に限りになく近い形で今なお現存することが可能となっていると考えられており、これが上賀茂神社がパワースポットたり得る理由の一つと言えるわけなのです!

二の鳥居をくぐると正面に見えるのが、上賀茂神社における大きな見どころの一つである「細殿(ほそどの)」と「立砂(たてすな)」になります。

細殿は、天皇や斎王が参拝する際に装束を整えたとされる場所で、控えめながらも美しい外観が特徴です。
立砂は、祭神である賀茂別雷大神が玉櫛媛の祭に応えて雷鳴とともに降臨したとされる「神山(こうやま)」をかたどったもので、祭神の依代となっています。
左右で対に立っているのは陰陽道に基づくものだそうで、また、立砂は清めの塩や盛り塩のルーツになったと言われているのですよ!








楼門のすぐ近くには「片岡社」と呼ばれる社があります。

片岡社には、上賀茂神社が創建されるきっかけとなった人物といえる「玉依比売命(玉櫛媛)」が祀られています。
ここまで何度も書いている通り、玉櫛媛は上賀茂神社の祭神である賀茂別雷大神の母なのですが、同時に女性の守護神ともされており、縁結びの神様としても知られています。
この御利益には『源氏物語』の作者である「紫式部」もあやかりに来たとか、、とも言われているほどの縁結びの社なのですよ!


八咫烏おみくじに八咫烏の人形お守りを授与していただきました〜

令和の時代、幸先としては最高です!!!上賀茂神社で大吉というのがよりうれしいしモチベーション・テンションアップになりますね〜!

上賀茂神社と下鴨神社を合わせた呼び名である「賀茂神社」が八咫烏の本拠地らしいのですが、なぜ上賀茂神社と八咫烏が関係あるかという確たる情報は得ることができませんでした…











一の鳥居まで戻ってきて、はい、お終い。。とはいかず…!
駐輪場へ行くついでにちょっと寄り道してみました!






2019年秋の京都巡りの際は、このあと上賀茂神社から自転車で金閣寺へ向かいました!


ここまで上賀茂神社の様子・細かな見どころをご紹介しましたが、せっかくなので2020年の初詣で上賀茂神社へ詣った際の写真も少し載せていきます!









数年前では考えられない、というか、ここまで一つの神社にハマるだなんて自分でも思っていなかったよ。笑



こちらは、秋のときはガンスルーしていた「渉渓園(しょうけいえん)」という庭園になります。

平安装束に身を包んだ歌人たちが、庭園を流れる「ならの小川」に杯を流しながら和歌を詠む「賀茂曲水宴」などの祭事が行われる場所になります。








上賀茂神社の観光案内

拝観時間
5時30分~17時(祭典等により変更有り)
楼門、授与所は8時から。
国宝本殿の特別参拝
午前10時から午後4時(土日・祝祭日は4時半まで)
料金
境内無料
国宝本殿の特別参拝
初穂料:大人1名様500円(同伴者も家族が中学生以下の場合は無料)
※夏期(7月6日~9月30日は大人1名様600円 小学生300円)
桜の見頃
4月上旬~4月中旬
アクセス
JR京都駅より
4系統上賀茂神社行き → 終点「上賀茂神社前」下車
9系統西賀茂車庫行き → 「上賀茂御園橋」下車→徒歩3分
地下鉄烏丸線 北大路駅より
37系統西賀茂車庫行き → 「上賀茂御園橋」下車→徒歩3分
北3系統京都産大行き → 「御園口町」下車→徒歩1分
駅から徒歩では約20分
地下鉄烏丸線 北山駅より(上賀茂神社の最寄り駅です)
4系統上賀茂神社行き → 終点「上賀茂神社前」下車
駅から徒歩では約15分
京阪出町柳駅より
4系統上賀茂神社行き → 終点「上賀茂神社前」下車
阪急大宮駅より
46系統上賀茂神社行き → 終点「上賀茂神社前」下車
自家用車
JR京都駅から約30分
地下鉄烏丸駅から約20分
地下鉄北大路駅から約10分
駐車場の利用
6:00 ~ 22:00
※出庫は24時間可能
※30分毎100円を境内維持管理協力金として30分ごと100円(繁忙期は1回500円となります。)
上賀茂神社のまとめ

ということで、今回は上賀茂神社こと賀茂別雷神社についてご紹介してきました!
2019年秋にはじめて訪問してから一気にその雰囲気に魅了され、2020年の初詣でにも選ばせていただいた上賀茂神社。
なんでかわからないけど、本当に上賀茂神社の二の鳥居の先の空気感が好きなんだよなぁ。。
こればかりは感性の問題なので共有するのが難しいのですが、個人的には“俺の推し神社”と呼びたい神社です!
ですのでぜひ皆さんにも、上賀茂神社へは足を運んでいただきたい!!
京都のみならず日本全国を見渡してもトップレベルのパワースポットです!
あなたも上賀茂神社で、良い時期の場合はさらなる力を、あまり良くない時期の場合は心機一転新たな力をいただきに、上賀茂神社を訪問してみてくださいね!!